迷宮学園録

ジラーチの連絡術は完璧。
しかし、それでもまだ家で眠っている生徒も居るだろう。
ハルクは時間を持て余し、一足先に集会場に来ていた。

椅子は、並べる必要は無い。そもそもそんな時間も無い。
ステージの上にマイクのコードだけ引っ張って、それで準備を終えたハルクはその場で生徒が集まるのを待つことにした。

雨音が、遠い世界のもののように微かに聞こえる。
あまり完全では無いが、多少の防音処理がなされているから、外から聞こえてくる音は殆ど蚊帳の外と言う表現が相応しいほど遠く聞こえた。
でも、雨音に混じって聞こえてきた『違和感』を、ハルクは聞き逃さない。
それは、悲鳴。生徒が悲鳴を上げながら、集会場に向かって走ってきている。

「はっ、はぁっ……ハルク、大変だ、変な影、影の化物が……ッ！！」

いの一番に入ってきた男子生徒が、壇上で待っていたハルクに叫んで伝える。
既に彼らもジラーチのテレパシーによって集会場に集まれと言う話は聞いているようだった。
ハルクはステージから飛び降り、その男子生徒を横切って集会場から出る。
集会場と言っても、３年校舎の中にある教室の中の一つだ。外はすぐに、校舎の廊下に繋がっている。
出ると直ぐに、数名の生徒が駆け込んできた。
何人か居たようだが、問題なのは逃げ遅れた泊まりの生徒が居ないかと言う点だった。

「……それで全員か？」
「はい、何とか……」

生徒のうちの一人は、生徒会員のヨハネだった。
ヨハネは逃げながらも応戦し、教室に泊まっていた生徒全員を無事に此処まで逃がしていたらしい。
ハルクの問い掛けに、珍しく疲弊気味な表情を浮かべたヨハネが答えた。

「後は俺に任せて、お前は集会場の入り口を守れ。じきに他の生徒が集まる」
「……会長は、……如何する心算だい？」
「登校してくる生徒も居るだろう。俺はこいつらを何とかする」

既に、いくつかの影が集会場の前に集まっていた。不気味な化物、と言う言葉がピッタリ似合う。
どんな攻撃も通用しそうに無いその物体たちが迫り、生徒は慌てて集会場の中に逃げ込んでいく。
影の手が、道を遮るハルク目掛けて伸ばされた。
しかし、影に与えられた命は、そこで尽きる。
影の手が伸ばされると同時に、ハルクはそれらを、その影に負けないくらいの黒い炎で焼き尽くしていた。跡形も無く消し去った影は再生しない、と言う事実はまだ誰も知らないが、ハルクはこの影に対抗しうる学園の貴重な戦力であった。尤も再生するのは人間型のみなのだが、それさえもまだ、誰も知らない。この先その情報を知るまで、何人生き残れるのかさえ解らない。

「手の空いてる者は、可能な限りこの学園の全ての人間に連絡しろ！　今日は登校するなと！　それから教員に緊急厳戒体制を敷くように言え！」

それだけヨハネに伝え、ハルクは廊下を走る。
集会場が、校舎の行き止まりの側にあったのが幸いだった。
校舎から出るついでに、全ての影の追手を駆除しながら走れるからだ。
しかし階段が校舎の左右にあるから、生き残りが居る可能性も考えられる。……今はヨハネを信じて走るしかない。

時間的には、学園に寝泊りしている生徒以外、誰もこの学園の中に来る者は居ない。
だから、もしも３年校舎を飛び出した時、グラウンドをゾロゾロと行進している大量の影が居たら、それらは全て抹殺すべき対象で間違いなかった。うっかり生徒を巻き添えにしない時間帯に『異常』が発生してくれて、ハルクは安堵した。
それと同時に、今朝から感じていた不安を全て拭う。
もう間違わない。昨日と今日は完全に違う。今日は、この学園が大きな節目を迎える一日になる。
恐らく、Ｘの本格的な攻撃が始まったのだろう。裏を返せば、この機を逃すわけにはいかない。
Ｘを見つけ、倒すまでは絶対に負けるわけにはいかない！

豪雨の中を躊躇い無く飛び出す。
行列を作る影のいくつががそれに気付いたが、それと同時に真っ黒な炎に焼き尽くされた。
……はずだった。

「……この雨は……ッ……」

影の数に対して、火力が足りなかった。ハルクの見込みでは確かに足りていたのに、人間型の影は再生する。
それは、この豪雨の所為。大量の水が炎の威力を弱め、影に再生の時間を与えてしまっている。
さらに、今の攻撃によって全ての影がハルクに気付き、周囲をぐるりと囲んだ。空には、黒い鳥まで飛んでいる。
人間型、昆虫型、動物型……バリエーションには困らないが、デザインセンスを疑いたくなるほどどいつもこいつも真っ黒に塗り潰された手抜きな概観であった。唯一違うのは、恐らく目に当たる部分だけが、この豪雨の中で爛々と輝いている点である。
その目の輝きは、色んな解釈が出来た。普通に、何時でも輝いているだけなのかも知れないし、必要なときだけ輝くのかも知れない。
でも、囲まれてしまうと、つい考えてしまう。
彼らは、美味しそうなご馳走を前にして、期待に胸を躍らせているのでは無いかと。
文字通り本当の意味で、目を輝かせているのではないかと。

ハルクの黒い炎のスキル『ダークネスフレア』は、この雨さえ無ければグラウンドを埋め尽くしそうな影の大群であってもまとめて焼き払うだけの持続性があった。
でも、この雨がただの雨ではない事を、ハルクは既に気付いていた。
普通、スキルで生じた炎は、実際の炎と違って水や二酸化炭素による消火は出来ない。
炎であって炎では無いそれは、スキルによってしか消す事が出来ないのだ。

だから、この雨は何者かのスキル。
この影が炎属性に弱い事を知っている何者かが、影を守るために使用した気象変化スキル。

ジワリと影が迫ってくる。
逃げ場は無い。ハルクは、両手に黒い炎を灯す。
影が飛び込んでこないのは、その炎を警戒しているからだろう。
しかし一匹でも飛び込んできたら、後は雪崩れ込むように突っ込んでくるのが容易に想像できた。

……突っ込まれると勝ち目が無い。
だから、逆に円の薄いところを見計らって、突っ込んだほうが生き残る確率は高い。

ハルクは瞬間的にそう判断し、影が自分を取り囲む際、行列から最も離れていた自分の背後に向かって、何の予備動作も無く走り出した。
直前まで背中を見せていたのに、いきなり突っ込んできたハルクに、後方を囲んでいた影の動作が一瞬遅れる。
同時に、ハルクに睨まれていて動けなかった前方の影が、背を向けて走り出すハルクの後を追って一斉に動き出す。
その時には既にハルクの前方には、ブスブスと焼け焦げた数体の影しか残っておらず、進路を阻む影は一つも無かった。
上空から、鳥の影が迫るが、それはハルクの半径５メートル地点で跡形も無く消失する。
炎では無く、極限まで高められた『熱気』が、ハルクを守る盾になっていた。
その鳥の影の耐久度が他の影に較べて一際低かったのが幸いだったとも言えるが、結果としてハルクは３年校舎前に陣取ることに成功する。
『熱気』の盾を押し広げる。
豪雨が少しだけ弱まる空間を作り出し、拡大する。
多少でも雨を弱められれば、ダークネスフレアが息を吹き返す。

だが、ハルクの儚い希望は絶たれる。
雨が、より激しさを増して、熱気の壁を押し潰す。
雨に打たれることで弱体化するハルクのスキルに対し、影はこの雨に何ら影響を受けず、数と言う暴力で迫ってくる。

「……此処までか……」

ハルクは、黒い炎を最大出力にした。
本来ならばこの学園全体を包み込めるほどの火力を誇る炎も、この豪雨のスキルを前に本来の力の２０％も出せなくなっていた。
この雨のスキルの使い手の実力が、ハルクには理解できた。
これは、人間レベルではない。人間を超越した存在にしか、こんな高度な天候操作は出来ない。
つまり、Ｘとは、人間を超越した怪物だったのだ。

この場をあと何分凌げるだろうか？
ハルクは最後にそんな事を考えた。
だが、影が攻撃射程圏内に迫ってきたので、考えるのをやめた。

何分持とうが、どうせこの身体が朽ちるまで持ち堪えてやるだけなのだから。

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迷宮学園録

第三十九話
『終末への誘いⅡ』

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「悪いな、遅くなった。待ったか？」
「いえ、待ってないです、全然大丈夫です」
「そうか。んじゃあさっさと行くか。何だか傘差してる気がしねぇぜ」

６時半。
フライアは、この学園に通うようになってから、アディスやアーティ、ユハビィたちと決めた『待ち合わせ場所』にてアディスと待ち合わせ、学園に向かった。他の者は居ない。アディスと、二人だけだ。
台風直撃を髣髴とさせる豪雨の前に傘を差していてもすっかりずぶ濡れだったが、今はそれは気にならなかった。

バシャ、バシャ、と歩くたびに水が跳ねる。
アディスは、膝から下が変色した制服のズボンを気持ち悪そうに見ていた。

「くっそー、雨は嫌いじゃないが降り過ぎだぜー」
「あはは、学校に着いたらジャージに着替えたほうがいいですね」
「お前もな。しっかりガードしとかねーとフリードに目ぇ付けられるぞ」
「あぅ、それは嫌です……」

他愛の無い、いつもの通りの会話に、フライアは少しだけ安堵する。
ハルクの電話を受けて、フライアはどうしても今日が昨日までの日常と違う気がして、不安を感じていた。昨日と今日で、世界が一変するような錯覚を感じて、怖かった。この豪雨がその感情をさらに逆撫でしていて、一刻も早く誰かに会いたかった。
アディスと一緒に学園へ。今はまだ皆一緒で、友達感覚だけど。
いつか、二人だけで登下校を共に出来たら、フライアにとってそれはこの上ない幸せだった。

今、まさに二人っきりで、その一言を言うのに、誰の邪魔も入らない状況が完成している。
でも、それを言うのは、この不安を完全に拭ってからにしようとフライアは思った。

バシャ、バシャ、

「……雨、全然弱まらないですね……」
「あぁ。テレビ見たけど、異常気象らしいぜ。最近環境問題がどーのこーのって、ホント困るぜ」

ビチャ、ビチャ、

「アディスさん、あまり足音立てて歩くと、余計濡れちゃいますよ？」

グチャ、グチャ、

「ん？　俺は結構慎重に歩いてるぜ？　フライアじゃねーの？」
「………え？」

……パシャ。

ザアァアァァア……と、雨の音。それを受けて軋む傘の振動音。
二人は立ち止まったのに、

ズシャ、ビチャ、グチャ、バシャ……

足音が、止まらない。

雨が強すぎて視界が悪い。音が何処から聞こえているのか解らない。
一つだけ解ったのは、その足音が自分たちではない他の誰かのものだと言う事。
そして、その足音の主が、確実に近付いてきていると言う事。

先ず、アディスが、最初にそれに気付いた。
彼はとても暴力的な家庭で育っているため、野生の勘、と言うものが強く働くらしい。

「フライア。俺から離れるなよ」
「……は、はい…」

アディスは傘を捨て、フライアを壁際に寄せるようにして密着した。
豪雨の中で、アディスの眼光が際立つ。刹那、アディスの拳が輝いた。
一瞬の出来事に、フライアは目が追いつかない。
アディスはその場から半時計回りに回転して、背後に迫っていた『何か』に強烈な一撃を加えた。
『何か』が吹き飛び、地面にぶつかって砕け散る。……砕け散る……！？

「ひっ……！」
「走るぞ！」

腕を掴み、走り出すアディスに引っ張られ、フライアも傘を捨てて走る。
砕け散った何かは、豪雨の所為で一瞬視界から消えたが、まるで水溜りが何処か別の所に通じているかのように、その中から再び完全な姿で出現した。……それも、一つや二つではない。
砕け散った分だけ影は数を増し、再びビチャビチャと音を立てて歩き始めたのだ。

真っ黒に塗り潰された、影みたいな化物が町を徘徊している。
早朝だ。しかもこんな豪雨の中だ。住宅街に逃げても、人っ子一人見受けられやしない。
それが、フライアの不安をさらに掻き立てる。
昨日を境に、或いはついさっきを境に別の世界に飛ばされてしまったのではないかと。自分たち以外の全ての人間が消えて、代わりに影の化物が徘徊する異世界に来てしまったのではないかと！

「あ、アディスさん、……これ、一体何なんですかっ！　私、夢でも、見てるんですかっ！！」
「夢ならありがてーぜ！　くそっ、どっちに逃げりゃいいんだ！？」

住宅街を疾駆するが、どこの曲がり角を見ても影の化物が現れる気がして、分かれ道を見るたびに選択を迫られる。その上、背後からは先ほどの影の軍勢が迫ってくる。

グチャ、グチャ、グチャ、グチャ、ビチャ、ビチャ、ビチャ、ビチャ！

迫る時は遅いのに、遠くから追ってくる時は嫌に早い。軍隊が足並み揃えて行進してくるような、でもそれが軍隊じゃなくて真っ黒に塗り潰された人間の形をした化物たちと言う異常極まりない光景！
こちらも必死に走るが、豪雨を吸って重くなった服、特にアディスは長ズボンだから走り難い。
そして恐怖のあまりフライアも、もしもアディスが腕を掴んでくれていなかったら、とっくに転んで影に捉っていたに違いないほど足が言う事を聞かなくなり始めていた。

「こっち、学園のほう……！」
「学園に行きゃ誰か居るだろ、こっからじゃデンリュウ先生んとこ行くより早ぇ！」

服が重い！　前髪から滝のように滴る水で目が潰される！　激しすぎる雨を傘無しで受け続けるダメージが予想外に大きい！　まるで水中に居るみたいに呼吸が上手く出来ないッ！
既に、学園までフライアを連れて走り切る自信が、アディスには無かった。
フライアを見捨てれば逃げ切れる。だが、その選択肢はそもそも存在しない。

至上目的はフライアの生存。それ以外は望まない！
―――だから頼む、この路地の向こうには影なんか居ないでくれ！
祈るように曲がり角を曲がる。視界の中に、昆虫の形をした真っ黒な物体が現れた。
ゲームの中でしか見たことが無いような巨大な蜘蛛！　でも６本足だったからそれは蜘蛛に似た昆虫だろう！　それは視界に入ったアディスを見て、獲物を見つけたかのように反応する―――

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ！！」

しかし、その蜘蛛のような昆虫が獲物を捕える事は無かった。
輝く拳が、考えるより早く昆虫の頭蓋を叩き潰したのだ。
昆虫は、自分が潰されたことを把握するより早く意識を刈取られ、豪雨の中に崩れ落ちた。
自分が死んだ事にさえ気付かないのか、その６本の足を何時までもジタバタと動かしていたが、その時には狩るべき獲物は遥か後方を過ぎ去っていた。

「あと２回だ、くそッ！」

アディスが、学園入学祝いに、兄であるアークから教わった攻撃スキル『シャインストーム』。
気力より高い単位のエネルギー『波導』を拳に集め、それを力任せに相手に叩き込む乱暴な必殺技だが、『波導』を扱う才能さえあれば難しいことは何も考える必要が無いので、アディスには学園でスキルの勉強をする前でも扱う事が出来た唯一のスキルであった。
だが、『波導』のエネルギー消費量は『気力』の数倍に昇る。
体内で生成する波導の残量に余裕があっても、それを振り回す身体の体力が先に音を上げるのだ。
だからアディスは、これを短時間では片手で数えられる程度しか連発できない。
まして豪雨の中で走りながらでは、その使用回数はさらに制限される。
フライアを守ると言う大儀を掲げて根性引っ張り出しても、あと２回が限界だった。

この道を抜ければ、学園を囲む壁が見えてくる。
何も門を潜る必要は無い、その壁を越える事くらい、何気に運動神経のあるフライアなら出来る。
だから、せめてそこまでは絶対に立ち止まってはならない。どんな影が出てきても叩き潰す！

「アディスさん！　上っ！！」
「―――ッ！」

鳥の影が急降下して来た。
アディスはフライアの一言を受けて、上体を仰け反らせることで顔面を抉られることだけは回避したが、足を滑らせて転倒してしまう。フライアを掴む手が滑り落ちた。
その瞬間、フライアは悟る。
上空にも影が居る。何処にも、逃げ場なんて無い。逃げるだけなら体力の続く限り逃げられよう、でも最期は必ず捕まって殺される。それは、史上最悪の持久走！
助かる道なんて無い、都合よく正義の味方でも駆けつけてくれたり、アディスや自分に秘められた力が覚醒でもしない限り！

「フライア、……アレだ。離れるなっつったが、やっぱ走れ」
「嫌です。一緒に居ます」
「……死ぬぞ？」
「アディスさんを信じます」
「悪いが、俺には隠された力も何も無い。『やれやれ本当は使いたくなかったんだが、』なんてセリフは、言えそうにも無い」

『本当は使いたくなかったんだが仕方ない。覚悟しろよお前ら』なんてよくある定型句だが。
窮地に追い込まれて、漸く隠していた秘策を取り出すなんて、アディスには出来なかった。
……そんな隠し玉は無いと、アディスは断言した。それでも、フライアは離れない。

アディスも解っていた。
何処にも逃げ場なんか無い事を。学園に近付くに連れて、影のバリエーションが増えているのだ。
最初は人間型だったが、昆虫、鳥、他にも一瞬見ただけじゃよく解らないようなものまで。
こんな異常な光景の発端となり得る場所がこの地域にあるとしたら、それは学園以外に無い。

散々追い詰められて逃げ惑って、漸く学園まであと少しと言うところで、発端は学園かも知れないと言う予感が前進を止めさせた。上空を飛び回る鳥は、最初の一撃以降、なかなか攻撃を仕掛けて来ず、グルグルと旋回していた。
つまり、あの鳥は耐久度が低く、奇襲以外はしてこないと言う事か。だが、上空を旋回するそれは他の影たちにとって目印になる可能性が高い。
もしその仮説が正しければ、影の大群がもうすぐ押し寄せてくるに違いなかった。
雨が激しさを増す中、上空を飛ぶ鳥は真っ黒なくせに、やたらと目立っていた。

「……あと３発……いや、５発。とりあえずデンリュウ先生の家に行こう、走れるか？」
「はい、何とか……」

学園の中には入れない。
デンリュウ校長の家に行くしかない。
そのためには学園の前を通って迂回しなければならないが、振り返って影の大群に突っ込むよりはよほど可能性のある選択肢だ。
残り２発しか打てそうも無いが、限界をブチ破ってあと５回打つことを心に決める。

「アディスさん」
「何だ」
「……………やっぱりいいです。……生き残れたら、言います」
「へっ……、そりゃあ……気になって死んでも死に切れねぇな……」

今度は腕ではなく手を握り、また二人で走り始める。
豪雨と、上空と、背後を気にしながら―――前へ。
容赦なく奪われる体温なんて、後でいくらでも暖めなおせばいい！
今この瞬間、残された全ての体温を限界まで沸騰させる！
この手を離さない、離すわけにはいかない！　だからこの手だけでも体温を失うな感覚を失うな！
走れ走れ走れ、前方に何が現れても叩き潰せ考える間を与えるな！
上空への意識を怠るな頭を抉られたくなかったら！
後方の軍勢を忘れるな食い潰されたくなかったら！

―――絶対に立ち止まるな二人で生き残りたかったらッッ！

「――――あっ！」

フライアの足が、豪雨によって排水口から溢れ出した大量の水の流れに絡め取られ、転倒する。
先ほどまでの場所とは地形が変わって、学園周辺は足首まで水に浸かるほど浸水していた。
靴が、枷となる。フライアを抱き起こしながら、アディスは靴を捨てた。
だが、その判断は誤りだ。喩えどんなに邪魔でも、アディスはそれを捨てるべきでは無かった。
再び走り出すと同時に、アディスは足の裏に激痛を感じた。
この濁った泥水の中を流れた『何か』を踏みつけ、足の裏に怪我を負ったのだ。
何と言う不注意、不用意な判断だと後悔しても後の祭。

「アディスさん！」
「っ、大丈夫、だっ、走れッ」

激痛を堪え、再び走り出す。
こんな下水も混じっているとも知れない溢れた水の中を、怪我をした足を剥き出しにして走ったら、絶対明日には変な病気に掛かって倒れているだろう。明日までには決着をつけなければならない！
でも明日までに逃げ切れる？　この惨劇が、今日で終わりだと誰が決めた？

前方に再び、今度は巨大な影が現れた。
象か何かのようだが、真っ黒に塗り潰されたそれが象であるかどうかなんて直ぐには解らない。
ただ、アディスはそれを見た瞬間、再び拳を振り翳す。
頭を潰せば倒せると、これまでの数回の戦いが証明する！
だから相手が巨体でも畏れず踏み込み、相手に何も考える暇を与えずに叩き潰せばいい！

―――が、怪我をした足が、ぬかるみに取られる。
結果、大きく飛び出そうとして、逆に前方に倒れ込む形になっていた。
顔に掛かった水を拭い、慌てて上体を起こすが、既に巨大な『黒』が眼前に迫っていた。

靴を履いていてもいなくても、この結果は変わらなかったのだろうか。
今となっては解らない。

「……押し潰すか？　上等だ、初弾で潰せなかったのは残念だが、まだ負けちゃいねぇ」

ノロマな象に向かって軽口叩きながら、拳により強い輝きを込める。それは『２発分』。
１発で人間より一回り大きい昆虫クラスまでは潰せた。
その倍以上の大きさの象には、２発分が必要かも知れない。
不意打ちでなく正面から潰すのならば。

「走れフライアァーーーーッ！！」

その一言は、象が砕け散る前提で放たれたもの。
フライアはそれを理解し、象に向かって特攻する。
フライアが象にぶつかるより先にアディスの拳が象に命中し、砕け散るはず。

「俺たちが生き残る、邪魔をするなぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああッッ！！」

アディスとフライアが並ぶ。その次にアディスの拳とフライアが並ぶ。その次に、アディスの拳を離れた光とフライアが並んで、最後は光が僅かにフライアより前に出て象に直撃する。

『シャインバースト』。

シャインストームは相手に拳をぶつける技だが、シャインバーストはその拳に込めたエネルギーを正拳突きの挙動に伴って射出する超近距離爆撃だ。威力はストームと変わらないので、隠し玉でも何でもない。
足を負傷して飛び込みが出来ないから、代わりに使っただけのスキルだ。

「ＧＲＲＲＲＲＲＲＲＲＲＯＯＯＯＯＯＯＯＯＯＯＯＯッッ！」

影の魔物に対して光の弾丸が命中し、炸裂する。
黒い象は、最初に襲ってきた人間型のそれが木端微塵になるのと同じように、正中線から真っ二つに割れて爆散した。直後、奇跡的なタイミングでフライアが駆け抜け、窮地を脱出する。

……でも、アディスが来ない。
走っても走っても、アディスが追いついてこない、その声を掛けてくれない！
不安になって、とうとう振り返ったフライアの目に映ったのは、大量の泥水が流れる地面に横たわるアディスの背中に嘴を突き立てた、真っ黒な鳥の姿だった。

「あ、ぁあぁぁああああっ……！」

足を止める。アディスが、黒い影の鳥に捕まっている。
逃げろ、と言うアディスの魂の叫びが聞こえた気がした。
でも、フライアはもう逃げられなかった。
追い討ちを掛けるように、人間型の影が集まってくる。それも、あらゆる方角から。
今までは前からどんな怪物が来てもアディスが破壊してくれたから逃げられたけど、それを失ったフライアは、もう前方に居る数匹の『人間型』を突破することさえ出来ない。

「そんな、イヤ、嫌、アディスさんっ、あっぁぁあああ！　嫌ァァァぁぁぁぁあぁぁあああああああああああああああああああああっっ！！」

豪雨の中、フライアの悲痛な叫びだけが木霊した。

続く

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