魔王ゼレスは、『此処』とは根本的に違う世界からやってきた。
彼は、自称魔王などでは無く、人々からもそう呼ばれる列記とした魔王であり、そして一人の人間と恋をしていた。

それは、語られない物語。

語られるのは、どうせ勇者が魔王を倒してハッピーエンドになる物語に決まっている。
だからそれは、決して語られない悲劇の顛末。

誰も幸せになんかなれなかった。

ただ多くの犠牲者と、悲しい擦れ違いが繰り返されただけの、救いようの無い事件が起きただけだ。

……そして。
本当の意味で、この事件が語られなかったのは。
地上の全ての生物の中で、唯一語り継ぐ力を得た生き物が。
この事件を見届けた、それを語るべき『人間』が。
……ただの一人も生き残らなかったから。



誰も知らない。
その事件の真相を、誰も。



魔王は、それを語らなかったから。








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迷宮学園録

第三十六話
『魔王――終末のZ』

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誘拐された王女を救出するために集められた帝国軍が魔王城内部への侵攻を開始したのは、満月が妖艶に輝くある晩のことであった。
個々の力は非力でも、群れを成して圧倒的殲滅力を誇る人間に対抗するは、魔王が自ら作り出した怨念のカタマリで動く人形の兵士たち。
血と肉塊が飛び散るその光景に目を殺され、とても人間のそれとは思えぬ断末魔に耳を破られ、朽ちた仲間の放つ死臭に鼻を壊され、あまりの惨状に耐え切れずに胃液で自らの口を焼き、今、そこに居る者の中で、一体何人が最後まで『人間』である事を貫く事が出来ると言うのか。
答えは、0人。
人間であるならば、誰もその地獄を耐える事は出来るはずがない。
もし最後まで耐えられたなら、それは人間ではなく、心や感情を持たない肉の塊に過ぎない。
つまりこの凄惨な宴は、心を殺されて人間である事を止めた者達と、魔王に作られた人形とが織り成す世界終焉の人形劇。
人形は心無く命令を遂行し、己がどんなに傷ついても一人、また一人と確実に人をやめた肉塊を殺していく。
しかし、それでもミツバチがスズメバチを倒すように、『数』と言う比類なき力で人形を各個撃破していくヒトの名を冠する肉塊たち。いくらマシンガンを持っているからと言って、たった一人で1000を超える軍勢を破る事が出来ないように、強靭なタフネスを誇る魔王の僕たる人形も、やがて全てが動かぬ木屑と成り果てた。
その頃には、帝国軍は当初の3分の1にも満たぬ数しか残っていなかったが、彼らの役目は十分に果たせたと言っていい。たった一人の帝国騎士を魔王の居る場所まで無事に送り届けるための『道』を切り開くという使命は、確かに果たされていた。
その時には、生き残った3分の1のほぼ全員が、既に精神を殺された人間の形をした『何か』に成り果てていたとしても。

「何が魔王だ、ふざけやがって……! こんなに殺しやがった!!! こんなに簡単にッ!! オイ、そんなに大事なのかよ!! そんなにあの王女様が大事なのかよッ!? ええ!? こんなに沢山の犠牲を払ってまで助ける価値があるってのかよっ! ふざけんな! ふざけんなぁぁあああッ!!」

その、肉塊の群れの中で『人間として』生き残った最後の一人が、沢山の『死』の上に跪いて、叫んだ。
彼は、一時期は『勇者』と敵対していたが、何度も衝突を繰り返すうちに勇者の心意気に惹かれ、ついにこの戦場を引き受けるまでに至る程の、有能な槍使いであった。

「……これで、助けられませんでしたなんて言ってみやがれ……、絶対に、許さないからな……!!」






………





魔王城正門広場での激闘をただ一人、無視するかのように突破して疾駆する影が一つ。
これは語られぬ物語であったが、もし語られたとするならば、『勇者』と呼ばれるのはその影の持ち主であるこの男だろう。真っ赤に燃える炎の様な赤髪と、対照的な蒼き双眸。顔立ちは端整。勇者に相応しい肩当、マントを装備し、魔王との決戦に備えて手に入れた光の刃を引っ提げて、一瞬も立ち止まらず振り返らず駆け抜け、そして彼はついに、魔王の間へと通ずる巨大な扉の前に立った。

「約束しました。必ず助けに行くと……。貴女は覚えていないかも知れないけれど……騎士は、誓った約束は必ず果たすのです」

巨大な扉に手を掛け、全体重で押し開ける。
彼の、これまでの経緯は割愛する。ただ、今の彼にはよくある冒険譚の主人公に相応しいだけの不思議な力が、数々の試練によって備わっていた事は真実である。それでも魔王に及ぶかどうかは解らないが、普通は、死力を尽くして戦い、そして勝利を納めるのだろう。……そう、普通なら。

「魔王ゼレス! 帝国騎士ゼラフィス=エゼクラールの名の下に於いて、貴様を討伐する!」

巨大な扉から、彼は魔王がいかに巨大な図体をしているのかと想像していた。
しかし予想に反して、だだっ広い魔王の間の最奥に鎮座していたのは、年の頃がほぼ自分と同じくらいでは無いかと思われるような、緑色の髪を魔力の風に靡かせる男であった。
そしてその隣には、……助けると誓った、王女の姿が。

「ゼラフィス……! どうして貴方が此処に……!」

王女は我が目を疑った。
遠い昔、物心も付かぬような子供の頃のこと。王女と言う立場の圧力から逃げるように、こっそりと城を抜け出した時に初めて出会った少年。その少年が今、立派な帝国騎士となって此処に立っている。その光景が、にわかには信じられない。
確かに仲は良かった。でも、彼が此処に踏み込んでくる理由としては、その関係はあまりに軽い。
しかし、その関係が軽いというのは、王女の認識。
ゼラフィスと言うこの男の中に於いて、『約束』とは『世界』。それを反故にして、彼は生きていくことを許されない。だから、今日と言う日まで何度も倒されては立ち上がり、ついにこの場所に辿り着いたのだ。

「約束しました。私は貴女を縛る全ての柵を断ち切る『剣』であり、貴女に降り掛かる災いを跳ね除ける『盾』になると。今こそ、その約束を果たします……」

チャキ……と、光の刃の飾りが揺れる。ゼラフィスはその柄を握り、ビュンッと一振りしてから刃を構え、その先の魔王を真っ直ぐ見据える。

「魔王ゼレス。王女を攫うだけでなく、多くの人を傷付けた代償を、その命で清算してもらうぞ」
「待ってゼラフィス! 彼は、」

王女が何か言おうと身を乗り出すが、それは魔王ゼレスの左腕に遮られた。
魔王ゼレスはその所作だけで、『何も言うな』と告げていた。王女は、ただ悔しそうに俯いた。

「誇り高き人間よ。此処まで辿り着いた事に、俺は敬意を抱こう。貴様との決闘、受けて立つ」

コツ、コツ、と、魔王の座から数段の段差を降り、ゼレスはゼラフィスと同じ床の上に立った。
互いに睨み合って、迂闊な攻撃は仕掛けない。しかし、ゼラフィスのそれが『警戒』であるのに対し、ゼレスのそれは『余裕』であった。
ゼレスは、目の前の人間がどんな攻撃を仕掛けてこようと、それを上から捻じ伏せる自信があった。
だから、何かしてくるまでは、動かない。
対するゼラフィスは、動けない。ゼレスの余裕を警戒して、動けない。ジリジリと横移動をして、ゼレスの周囲を旋回するしかない。
ゼレスの横目を通過し、背後を取る。こんなにあっさりと背後に回りこめるのに、それにも関わらず動かないゼレスの余裕がプレッシャーとなって、ゼラフィスの全神経を圧迫し、汗を噴出させた。

「どうした。椅子取りゲームじゃないんだぞ」
「だ、黙れ……!」

背中を向けたまま言う魔王に、ゼラフィスはただ遠吠えするしかない。
しかしゼラフィスは己の心に言い聞かせる。これは逃げ腰じゃない、一流の騎士として、決して迂闊な攻撃は仕掛けないようにしているのだ、と。
王女が固唾を呑んでその光景を見守るしか無いのは、怖かったから。
本当は今すぐ止めに入りたかったのに、二つの強烈な意思のぶつかり合いによって生まれた魔力の奔流が、戦士とはかけ離れた存在である彼女にとってはあまりに負担が多すぎて、近寄る事が困難を極めていたと言うのもあるだろうが。
ただの人間には声を出すのも辛いと思うほどに、魔王の間は異常な緊迫に包まれていた。

「――――ッ!」

ゼラフィスが床を蹴って飛び出した。
彼の力が人間のそれを凌駕していると言うのを魔王が判断するのに、彼の蹴った床が大きく拉げているという光景は材料として十分だった。
光の刃が残像を残して振り抜かれる。その挙動は早すぎて、さらには光の刃の残像が残る時間が長すぎて、常人の目には一体いつ攻撃が当たったのかさえもわからないだろう。
しかし魔王ゼレスは、初弾でそれを見切る。光の刃に対を成す心算なのか、漆黒の刃でそれを受け止める。
若干遅れて、鈍い金属音が響いた時には、鍔迫り合いをする二人を中心にして、魔王の間の床が円を描くように陥没した。
だが、魔王の城の床は深い。多少陥没しても底が抜けて下の階に落ちることは無い。
ゼラフィスが跳躍する。瓦礫が舞い上がる。ゼレスが即座に追撃を仕掛ける。速度は互角に見えたが、攻撃の重さはゼレスの方が数段勝っていた。ゼレスの一撃を防いだものの、ゼラフィスは重力を無視して高い天井まで吹き飛ばされ、屋根を突き破って月夜の空を舞い上がった。ゼレスは、さらに容赦無い追撃を仕掛けるために飛翔する。

「見せてやろう、我が忌わしき父、『天空神』の雷をッ」
「なっ―――!!」

飛翔したゼレスが、漆黒の刃の先端から雷を放出する。
全ての自然現象の中で最上級の破壊力を誇るその一撃は、牢獄のように堅固に造られた魔王城の天井をぶち抜いて破壊した。直撃を受けたゼラフィスは、間一髪で精霊の力を使ってそれを防ぐが、衝撃全てを相殺することは出来なかった。

「―――ぐッ……!」

満月を背に、今の一撃で痺れた手を一喝したゼラフィスは、一度だけ深く息を吸い込んでから、呼吸を止めた。
大きく破損した屋根の穴から飛び出してきたゼレスがもう眼前に迫っていると言うのに、この極限状態に追い込まれた事によって、ゼラフィスのポテンシャルは急激に跳ね上がる。
青き双眸が、ゼレスの心臓を射抜いた。
もう、そこしか見えない、そこ以外見る必要は無い。他の全てのものは全て、雑念と切り捨てる。
ゼラフィスは屋根の上に着地し、それと同時に屋外に飛び出してきたゼレスに向かって跳躍した。

「おおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
「―――ッ! こいつ……この、人間……ッッ!!」

早い。ほんの2秒前とは比べ物にならない速度で振り抜かれた黄金の剣閃が、ゼレスの肩から血を舞い上げる。ゼレスは、この瞬間に余裕を消した。全力で獲物を狩るための、魔王としての意識を覚醒させた。
一撃目の不意打ちのような爆発力に思わず肩を斬られたが、油断さえしなければ決して避けられないレベルではないとゼレスは判断した。事実、今の一撃でさえ、心臓直撃は避けたのだから。
金色の光が、ゼラフィスの身体を包んでいた。魔王と戦うにあたり、いくらか精霊の試練を乗り越えて力を手に入れていたようだが、これがその力だと言うのなら―――

「脆弱だッ! 所詮精霊が、魔王に勝てると思うなッ―――!」

漆黒の刃が振り下ろされる。ゼラフィスは、それを防ぐために光の刃を向けるはずだった。
なのに、向けない。ゼラフィスは、迫り来る『死』を、もっと直接的な方法で取り除こうとしていた。
そう、殺される前に、殺す。ゼレスを殺せば、漆黒の刃は砕け散り、ゼラフィスに傷一つつけられない。
速かった。振り下ろされる刃も、真っ直ぐ突き出された光の刃も、どちらが速いのかなんて判別不能なくらい速かった。
ゼレスの羽織っていたマントを、光の刃が突き破った。
ゼラフィスの鎧が、見るも無残な形となって、屋根から転がり落ちた。

「ハァッ、ハァッ……!!」
「く、くくく……人間ンンンンンッ!! 随分と、愉しませてくれる……ッ!」

どちらも、紙一重。光の刃はゼレスの身体の僅かに左側を綺麗に通過し、マントだけを貫いていた。漆黒の刃は、ゼラフィスの肩当こそ切り落としたものの、肝心のゼラフィス本人が斬られた鎧を置き去りにして駆け抜けていたため、結局空振りに終わっていた。
互角に見えたが、この場面だけで勝敗を決するなら、軍配はゼラフィスに上がる。
ゼレスが、肩当ごとゼラフィスを切り裂けなかったのは、ゼラフィスの一撃を紙一重で回避するために、身体を少し傾けたからである。
その『少し』がゼラフィスの明暗を分けたと表現すると、ゼレスが勝ったように思えるだろうが、それは違う。
ゼレスは、ゼラフィスの一撃を、『回避させられた』のだ。
もしも回避していなかったら、本当にどちらが先に相手を殺していたのか、想像も付かない。
万が一などと言う確率ではない。50%。魔王ゼレスは、50%の確率で、先に自分が串刺しにされていたと予測した。
そして、間一髪で身を引き、その結果、ゼラフィスもまた助かった。
だから、ゼラフィスの勝利。たかが人間のくせに、魔王を恐怖させる一撃を放ったゼラフィスが、この一瞬の攻防を制した。
だが、ゼラフィスの振るう精霊の力は、想像以上に体力の消耗が激しいらしい。
今の一瞬の爆発力と引き換えに、ゼラフィスは肩で息をするほどまでに体力を失っていた。
そして、ゼレスは勝利を確信する。
今の一瞬で勝負を決せられなかった事は、ゼラフィスにとって致命的失敗であったのだと理解する。

「終わりだ、人間ンンンンンンッッ!!」
「くっ!! うあああああああああああああああああッッ!!」

魔王ゼレスの『雷』が、ゼラフィスの足元に炸裂する。瞬間、屋根が抜けて再び魔王の間へとゼラフィスを誘う。
落下中、全く身動き取れないゼラフィスに狙いを定め、ゼレスは恐らく最後の攻撃となるであろう一撃を放つ。漆黒の刃が蛇とも龍ともつかぬ不気味な『何か』に変貌し、ゼラフィスを丸ごと空中で飲み込もうとする止めの一撃。

「くたばれぇぇぇぇぇえええええええええええええええええええいッッッ!!」
「……負けない、負けられない……、俺は剣だ、俺は盾だ、俺は帝国騎士ゼラフィス=エゼクラールだッッッ!! 力を貸せ精霊よ! 俺の全てをお前らにくれてやるッ!! だから有りっ丈の力を貸せぇぇええええええええええええええッッッ!!!」

魔王の間の中の淀んだ大気が、突然光に包まれる。
夜空に輝く月が、まるでもう一つ出現したかのような錯覚。
黄金のシールドに守られたゼラフィスは、漆黒の物体の直撃を受けても尚、そこに立ち続けていた。
しかしゼレスにとって、今の一撃など何度でも使える普通の技に過ぎない。だから、確信した勝利の二文字は、未だ立ち続けるゼラフィスを見ても、彼の心の中では決して揺るがなかった。
その代わり、この男に対する敬意は、さらに膨らんだ。
たかが人間のくせに、ここまでやった者をゼレスは他に知らない。
一生に一度だけ、最高の決戦が出来るとしたら、それは『今日』だとゼレスは悟る。

「終わりだな、ゼラフィス=エゼクラール」

魔王ゼレスは、彼の呼称を『人間』からゼラフィス=エゼクラールに改めた。
それが、最後。この帝国騎士への、最後の餞。
ゼラフィスにはもう、戦う力が残っていなかった。
砕け散った黄金のシールドを最後に、ゼラフィスを包んだのは、魔王城の黒い大気。
ゼラフィスは、今やただの人間に過ぎなかった。

「貴様を、忘れん。絶対に」
「勝手に過去の人にするな……まだ、戦える……!」

光を失った刃は、ただの鋼の剣。魔王を倒すには、あまりに武器として頼りない。
それを持つ彼もまた先ほどまでの力を失い、頼りない。
ゼレスが再び漆黒の刃を顕現し、振り上げる。
先の攻防で天井は全て砕け、魔王の間と呼べるものは形を失って、彼らはただ月夜を背景にして向かい合っているだけだった。
前のゼラフィスの代わりに月を背負うは魔王ゼレス。夜空に投影されるような幻想的な姿は、魔王と呼ばれるだけの風格と威厳が備わっていた。

「……ォぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

ゼラフィスが再び床を蹴った。
それが最後の力。刃には微塵も力が込められず、全体重を乗せて相手にぶつかるだけの一撃。
人間程度なら串刺しに出来よう、だが魔王を相手にする上で、その攻撃は軽すぎた。
ゼレスは、それを避ける必要が無い。刃はゼレスの心臓辺りにぶつかって砕け散るだろうから。
そう確信していたゼレスは、この帝国騎士への敬意として、敢えてその一撃を受けることを選んだ。
……そう、全ては偶然。ゼレスの気紛れによって引き起こされた惨劇。
―――ドスッ! と、鈍い音がした。ゼレスにも、ゼラフィスにも、とても耳に馴染んだ聞き覚えのあるその音は、肉の塊に何かを突き刺した時に聞こえる独特の擬音。

「あ、……」

ゼレスは目を見開いた。
ゼラフィスは光の刃を手放し、床に倒れて、そしてまだ空中に留まっている光の刃を見上げた。
ゼラフィスの視界は、疲弊によって虚ろだった。だから最初は、光の刃が空中に浮いているように見えた。それは月が逆光になっていたから、よりそのように見えたのだろう。

しかし、現実は無情だった。
ゼラフィスが一瞬でも、光の刃がゼレスに届いたのだと思いながら目を閉じていられたら、少なくともゼラフィスだけは、幸せだった。

「ぜ、レス……様……」
「フィ、ノン……?」

王女フィノンは、……その身を盾に、ゼレスを守っていた。
全く必要無かったのに。盾など無くとも、その刃は魔王の身体に傷一つ付けられなかったのに。

「フィノオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッッ!!!」

魔王は吼えた。
自分の目の前で王女フィノンが光の刃を背に受け、己の漆黒の刃を掲げた腕を掴み、今にも消えそうな笑みを浮かべて、立っていた。が、すぐにグラリと身体が傾き、魔王はそれを受け止めた。
ゆっくりと腰を下ろし、フィノンを上半身だけ起こした姿勢にする。
フィノンの口から血が流れた。その光景が、ゼラフィスに見えた。

「……なん、で……、どうして……ッ、あぁぁぁぁあっ……!!」
「ゼラフィス……ごめ…なさい……、私は……ゼレス様が……」
「あ、ああああああッ……、……それじゃあ、この戦いは……俺たちの戦いは……!!」

それは、あまりに無意味な戦いだった。
王女フィノンは、自ら魔王ゼレスと共にいることを選んでいたのだ。
そして王女誘拐事件の晩、帝国の王はその事実を本人たちから知らされていたのだ。
でも、帝国の王はそれを認めるわけにはいかなかった。やっとの思いで授かった子が女であった事などはもう如何でもよかった。いずれはこの帝国を背負う一人の後継者を、易々と魔王などに渡すわけには絶対にいかなかった。帝国の信用にかけて、それだけは絶対に人々に知られるわけにはいかなかった。
だから王は、王女が魔王に誘拐されたと報じた。
フィノンが自ら魔王の許に行った事を伏せ、何としても魔王から奪回したかった。
やがてそこから始まる長い戦いの最中、帝国の王は自らの命を絶つことになる。良心の呵責か、それ以外の何かが在ったのかは、本人にしか解らない。しかし、それがこの狂った誤解の連鎖を絶対のものとして、いよいよ人間と魔王の戦いが激化していくことになったのは言うまでも無い。
ゼラフィスも、多くの仲間を失ってきた。
だからこそ、何としてもその使命を守りたかった。
それに加えて、幼き日の約束もまた果たしたかったから、彼はこの誤解を疑う事は一度も無かった。
そして、最期の最期でその真実を知り、絶望の中、息絶えた。語られぬ勇者、一人の帝国騎士の、壮絶な最期であった。ゼレスだけが、その存在を魂に刻み付ける。

「ゼレス様……もう、終わりにして下さい。この……戦いを」
「フィノン……」

王女フィノンの傷は致命傷だった。
ゼレスは魔王だから。天使のような神聖な存在ではないから。どんなに高い魔力があっても、それを『助ける』ためには使えない。傷を治すことは出来ても、命を救うことは出来ない。

「……もし、もう一度出会えたら……」

それが、最期の言葉。運命は、彼女に最期の言葉を紡ぐ事さえ、許さなかった。

魔王ゼレスは純粋に、ただ恋をしただけだった。
でも、魔王だから。最初、その感情が何なのか解らなかった。
戸惑って、苦しんで、でもフィノンに支えらると何でも出来そうな気がして。

“もし、もう一度出会えたら”

そんなことはありえない。
この世界に生まれ変わりや前世や来世などありはしない。
そんな世迷言を妄信するのは人間だけだ。だから、死別した人間に、二度と会う事は無い。
……でも、もしも本当にもう一度出会えたら、それは奇跡。
その奇跡と遭遇した時、今度は、最期まで一緒に居られるだろうか?
今度こそはちゃんと、人間の心を理解して、こんな惨劇を起こさずに済むのだろうか?

思考は泥沼。
崩壊した魔王の間で、生き残ったのは魔王ただ一人。
王女も、騎士も、帝国軍も、ただただ無残な屍を曝すのみ。

「人間……」

『人間』がわからない。
『人間』とは、一体『何』なんだ。
天使如きを崇める低俗な存在でありながら、ついには魔王さえも脅かす脅威となった、人間。
フィノンやゼラフィスのような、純粋で高潔な人間。
王女奪回の報酬目当てで襲撃してくる下種な人間。
そして、今回の事件に乗じて繰り返される帝国と周辺諸国の衝突。
政治的争い。策略。謀略。薄汚い欲望の祭典。
奪い、奪われ、殺し、殺され、自ら命を絶ち、或いは無様に命乞いをし、そして誰かを好きになって、嫌いになって、ぶつかって、泣いて、笑って、…………人間。

魔王の頬を伝うそれは、魔王にとって生まれて初めて流したモノ。
ヒトは、心を大きく揺さぶられる時、それを流すのだという。
漸く、魔王の頭が、目の前の惨状に追いついた。
死人は蘇らない。この事件はもう、幕を降ろしている。
閉幕した舞台を前に、それでも席を立てぬ己の心を、やっと魔王は理解した。

一度も言わなかった。その言葉の意味が解らなくて、ただの一度だって言ってやれなかった。
でも、失って、ぽっかり空いた心の穴に気付いて、やっと理解したから、涙が流れたのだ。

「愛……」

生きているうちに一度でも言えたなら、フィノンは少し照れて、でも、きっと笑ってくれた。
もう届かない。その言葉が届かない。生きていないから、届けられない。
どんなに手を伸ばしてみても、もう彼女の微笑みに手が届かない。

その感情に気付かず、夜な夜なフィノンに会いに出かけたかつての記憶が蘇る。
あの頃からずっと、『それ』は胸に引っ掛かっていたのを、今になって気付く。
そして、ヒトも魔王も、こんなにも変わらないモノだったのかと気付く。
結局、失わなければ気付かない。失って初めて気付くしか、ない。

どうしようもない、救いようの無い悲劇。


「もう一度……出会えたら……」


そしてもう一度、魔王である自分を好きになって貰えたら。
己の立場を捨て置いてでも、共に在る事を選んで貰えたのなら。




今度こそ。その言葉を。









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