サタデーナイトなポーズを決める男が立っていた。

ゼレスも、ホウオウも、……思わず、手を止めて、……何とも言えない唖然とした顔で、その男を見ていた。……誰だ、お前。と。心の中で、思わず言わされてしまった。



「ある時は英国紳士、ある時はしがない占い師、またある時は一流の手品師。俺って一体何者なんだ!?」

「「俺が/私が知るかぁぁぁああああッ!!」」

「何ィ、俺を知らないだとォ? お前ら、俺を通りすがりのナイスガイと勘違いしてんじゃねーのか?」

「してねーよ! 誰だお前!」

「なっ、何だそのツッコミは! ノリ悪いな! 空気読めよ!」



ゼレスさえ己のキャラを忘れてツッコミを入れる。
人の心をかき乱す事に関して、アークは天性の才能を持っていた。


「OKOK、落ち着けお前ら。それよりもっと重大な問題があるだろ。YOSHIZUMIは、また天気予報外しやがったな? って事だよ」


豪雨を指して、昨日の天気予報云々を語りだすアーク。
流石のホウオウも、そろそろ気を取り直して再び身構えた。


「お、やる気かコノヤロウ。上等だコノヤロウ。魔王ゼレスも倒せねーでいっちょ前に俺に喧嘩売ろーってのか」


コキコキと手をならした後、ブンブンと肩を回しながら、アークはホウオウの前にズカズカと歩いていく。
ホウオウは、アークがどんな攻撃を仕掛けてくるか解らなかったから、間合いが詰まるに従い、少しずつ後退していた。

もう一度言うが。アークは、人の心をかき乱す、超天才だった。
……あのホウオウでさえ、アークの根拠の無い傲慢な態度の前に、思わず後退していたのだ。もはや、アークは世界最高峰のトリックスターである。
実力で言えば、魔王ゼレスにも及ばないくせに。


「戦う前に一つ言っておくぜ」


アークが、ピッと人差し指を立てて言う。


「私の戦闘力は53万です」
「何基準だよ!」


ゼレスがツッコミを入れた。
アークは、ナイスツッコミ! と満面の笑みでグーサインを送る。
そろそろゼレスは、アークの実力の程度には気付いていた。
だが、ホウオウは未だにアークと言う奇妙な人間を測りかねているようで、困惑した表情を浮かべている。

―――何もかもがアークの計算通り。

こうやって散々時間を稼いだお陰で、待ち侘びた援軍が到着してくれたのだから。









「―――どうやら、貴方がロストの親玉みたいね」

「……ッ!」




また一人、グラウンドに入り込んでくる。
青い髪を靡かせ、氷のように冷たい目を細めながら。

そして、アークは笑った。







「勝った…………」





ゼレスと、アークと、ラプラス。
並んでこんなに頼もしい光景は無い。

これにデンリュウも加われば完全無欠な気がしたが、今は無いもの強請りをしても仕方ないから諦めるとして、ラプラスと共に学園まで逃げてこれたアーティたちは、自分が彼らの味方の側で本当に良かったと心から思った。

あの3人を敵に回して、一体誰が生き残れるというのか。



「さぁ、覚悟しろよ! この虫野郎!」
「虫関係無いぞ」
「関係ないわね」
「嬉しいツッコミしてくれるじゃないの。それじゃ、とことん喜ばせてやろうぜ」








**************************

迷宮学園録

第四十七話
『ロスト/絶対』

**************************










アークが、その後に立っているゼレスとラプラスに向けて、右手の手の平を突き出した。
そして、左手はホウオウに向けて突き出し、まるで通行止めにでもしているような体勢を取る。
でも、背後に居たラプラスとゼレスは、瞬時にアークの狙いが読めた。
……いや、読まされたのかも知れない。『気力の流れ』とでも言えばいいだろうか。
アークが見せた手の平が何のためのものなのかが、言葉にしなくてもラプラスとゼレスには伝わっていた。


「魔導にゃあ莫大なエネルギーが要る。一撃で決めてやっから、有りっ丈の気力と波導を俺によこしやがれ」

「―――ッ、貴様!」



ホウオウが、アークの狙いに気付き、仕掛ける―――仕掛けざるを得ない。ホウオウに、次に放たれるであろう一撃を無効化する自信が無いと言う何よりの証明だった。

だが、アークはそれを許さない。
アークは古今東西あらゆるスキルを身に付けていて、その中には一見、何の役にも立たないようなスキルがあるが、アークにとっては一つとして無駄なものなど無いと言う。


「『4秒動けない』!」


アークが言い放ったその一言は、聞いた者には、スキル名かどうかさえ解らない。
だが、それは確かにスキルの名前であり、発動のトリガーでもある。

『4秒動けない』。
どの系統にも属さない、殆どただの魔法と呼べるスキル。
アークが一体何処でこんなスキルを覚えてきたのかは謎に満ちているがそれはさて置き、その効果たるや実に驚くべき威力を誇る。

何と、このスキルのトリガーとなる『4秒動けない』と言う言葉を聞いてしまった者は、何が起きても4秒間身動きが出来なくなるのである。
……つまり、自分も動けなくなること請け合いなのだ。実に不可解なスキルである。

しかし、聞かせさえすれば、どんな相手からも4秒間自由を奪う事が出来る。
じっくり考えれば色々使い道はありそうだが、普段アークはこのスキルを、4秒間自分を空中に固定したい時などに使っていた。
そう、『動けなくなる』とは重力さえも無視して、このスキル起動時に居た場所に固定されるレベルでの意味合いを持つ。だからと言って、自分が動けなくなると言う前提がある以上、あまり攻撃的なスキルでは無いのは明らかだが。

ともあれ、このスキルを受けたホウオウ、アーク、ゼレス、ラプラスは、4秒間その場から指一本動かせなくなる。
因みにその場から動けないだけであって、呼吸などは出来るからこのスキルで死者は出ない。


それと、動けないのは身体だけだから、ゼレスもラプラスも、アークに気力と波導を分け与えることが出来る。
そして、その強烈な一撃を叩き込むための的となるホウオウもまた目の前で4秒動けないのだから、……この不可思議なスキルは、最初からこのためだけに存在していたのでは無いかと思われるくらい、全く無駄の無い威力を発揮していた。

だいたい、『−X』の力を持つ相手に、普通のスキルは通用しないのだ。
こんな意味の解らない、回避不能なスキルでも使わない限り、ホウオウの動きを止めることは不可能である。故に、アークはそこまで考えた上で、この形を完成させたのだ。

……天才、と言うより他に、相応しい言葉は無かった。
ゼレスもラプラスも、底知れぬ思考を持つ眼前の男に、畏敬の念を覚える。

特にゼレスは、途中からアークの実力の程は理解していた。
自分より劣る、多少強いだけの人間だと、その程度に思っていた。

でも今、考えを改める。
アークと言う男を敵に回して、確実な勝利などありはしないと。
どんな優勢でも、アークと言うたった一人の人間がそこに居るだけで、勝利は途端に遠のいてしまう。
1手先も2手先も読めていて、勝利は揺るがないはずなのにアークと言う存在の所為で自信が揺らいでしまう。

人の心をかき乱す天才。そしてそれ以上の、目的遂行に於ける天才的思考。
ゼレスは、アークこそ『人間最強』だと評価した。
真の強さとは、アークの様な人間を指して言うのだ。と。

アークの前では、どんな『確実』も揺らぐ。
これに勝る力など無いと思えるくらい、味方にして頼もしい存在は無かった。




「………ッ!!」



4秒間、的にされて動けぬホウオウが、声にならぬ悲鳴を上げる。

ホウオウの絶対的優位が揺らぐ。
ホウオウの絶対的防御が揺らぐ。
ホウオウの絶対的意思が、……揺らぐ。

何もかもが崩れ去る。アークの前に『絶対』など無し。



「そうだ。俺の前で易々と絶対を語るなよ」



アークの目が、語る。
アークも動けず、言葉も発せられないはずなのに、その瞳が言葉を紡いでホウオウに突き刺してくる。



「お前の安っぽい『絶対』は今、俺の手で崩された」


『ふざけるな……私は最強魔術師だッ、私の力こそ最強! 私の魔術こそ絶対! それが真実ッ!』



アークの心を読む力が、漸くホウオウの思考の波長とシンクロし、会話が成立する。
自分こそ最強だと、ホウオウが再び意思の力を強めるのを、アークは肌で感じていた。
『安っぽい絶対』などと言ったものの、アークはホウオウを決して低く評価はしていない。

ホウオウの意思が再び炎を滾らせた瞬間、アークは心の中で溜息をついた。
アークが信じる『絶対』とは、ただ一つのみ。だから、それ以外の『絶対』を認めないのがアークの生き方。故に、常に自分の勝利さえも絶対では無い事を知りつつ、限りなく絶対に近い策を打って出るのが彼の思考。

正面からぶつかって、ホウオウの『−X』を打ち破れる確率は、アークの推測では90%。
この90%までがアークの持つスキルで生み出せる『絶対』だから、残りの10%は他の者の力を借りなければ埋められない。

―――ラプラスと言う駒を見つけて、アークは歓喜した。
計算の悪魔の名を冠する古代兵器ならば、残りの10%を限りなく0にしてくれるから。

ラプラスが計算の力によって無駄なく最大限のエネルギーを分け与えてくれる。
それによって、アークの『絶対』が、さらに100%へと迫る。 
  



3秒経過。
ホウオウは、この4秒を無限のように感じていたが、既に残すところは1秒。

でも、ホウオウは4秒経過を考える暇が無い。
今、彼に出来たのは、身体を動かせない代わりに魔力を動かし、『−X』の力で再び限界を突破する覚悟を決める事だけだ。

ホウオウの胸中に、再び感謝の心が芽生える。
アークと対峙した事ではなく、この世界に来れたことそのものに対しての、感謝。

二度目の限界を超えるチャンスを得て喜びを感じるホウオウの意志の力は、異世界を支配したと言う経歴が決して嘘や妄想では無い事を暗に証明していた。



「喰らえホウオウ。打ち消せるモンなら打ち消してみろ……」

『望み通り、お前らの希望ごと打ち消してくれる……ッ!』






















―――連行する白手の魔導Lv5



















アークの実力は高くない。
それは、アーク自身が内包する気力や波導がそれほど高くは無いから、ゼレスがそう判断しただけの話だ。
実際、アークの持つ気力の総量は、下手をすれば学園の3年生の実力者程度である。

それでも彼が強いのは、ホウオウが欲して止まなかった力を持っていたため。
ホウオウは、己が持つ無限のような魔力を、身体の耐久力の関係で、一度にごく一部しか使うことが出来ないのを非常に悔しく思っていた。

アークにはそれが無い。
理由は解らないが、アークの天性の素質があるとすれば、『それ』だ。
アークは、どんなに強大なエネルギーでも、一度に好きなだけ扱う事が出来る。だから、仲間が多ければ多いほど、それらを全て一纏めにして途轍もない力を発揮できる。


故に、ホウオウの限界を超える一撃をも『生み出せる』。
足りない分を足して足して、少しでも上回ればアークの勝ち。
そんな数の暴力を地で行く、ゼレス曰く『人間最強』の男が選んだスキルは、ミリエが自分の手足のように使っていた魔導の一つ、『連行する白手の魔導』。

空間から無数の『白い手』が出現し、対象を捕まえて連行するだけの魔法。
黒木全火はこれによって度々校長室に引っ張り込まれたりしていたが、まさかその記憶を盗み見ただけで覚えてしまうとは、アークは本当に『天才』であったのかも知れない。



強烈な攻撃魔法が飛んでくるかと身構えていたホウオウは、目で追える速度で迫る無数の手を見て、少しだけ安堵した。
一番最初に接近してきた『手』を、『−X』の力で薙ぎ払う。

……その瞬間、ホウオウは戦慄した。


「ッッ……!!」


今にも消えそうな真っ白い手は、その見た目に反してあまりに『重い』。
その手の一本一本が、先の二重複合波導にも匹敵しそうなほどの魔力を内包していた。

だから、一本目を無効化した時、悟る。
残る、その数100を超える白い手が同時に襲い掛かってきて、果たしてそれらを全て無効化する事が出来るのだろうか? と。


その手は子供のよう。
お菓子をねだる? サインをねだる?
そのどちらにしても、無邪気に迫り来る数々の手が与えるのはもはや恐怖。

手と手の、僅かな隙間から見えた、アークの顔。
彼は、この魔術を発動した事でかなり疲弊していたようだが、しかし不敵な笑みを湛えていた。












「安心しろ、その手はお前を殺さない。ただ、世界の外に連れて行くだけだ」












「ぐっ……ゥゥゥウウウウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」











―――ホウオウを殺さない。
研究者ホウオウは、サナに心操られた哀れな被害者だから。

ゼレスの勝ち方では、ホウオウが救えないのだ。
アークの計算の中で、ゼレスがホウオウよりも弱かった事は、とても喜ばしい事であった。


そうでなければ、ホウオウが、この戦いの唯一の犠牲者になってしまうから……。







「さぁ、望み通り『全員』助けたぞ黒木全火。後はてめぇが、サナを倒すだけだぜ」



アークの読心は、研究者ホウオウの記憶を僅かに垣間見ていた。
『サナ』との接触があったことや、その結果として異世界の支配者に身体を乗っ取られた事。

だから、この学園の地下研究室にサナが居る事を知っている。
そして、それを倒す事で全ての決着がつくことも知っている。


異界の支配者ホウオウの断末魔が、白い手の中から、聞こえなくなった。
やがて白い手は天に昇っていき、見えなくなる。ホウオウの意識が連行され、恐らく元の世界に帰されるのだろう。ゼレスは戦いの終焉を見送り、その場に倒れた。


「よー、無事かい魔王さんよ。よく頑張ったじゃねーの」
「……フン。勘違いするなよ………アイツを倒すために、お前を利用しただけだからな……」
「……ツンデレめ」
「誰がッ!!」


うつ伏せでぶっ倒れたゼレスを無視して、アークはラプラスの手を取る。
ラプラスもかなり消耗したらしく、随分兵器らしくない表情をしていた。


「……まだ、あと一人居るんじゃない……?」


ラプラスが問う。
流石は計算の悪魔とでも言うべきか。
ラプラスは、ロストたちの元凶たる支配者ホウオウをこの世界に呼び出す手引きをした人間の存在に、感づいていた。
アークは否定しないが、それを倒しに行くと言う意味の返答は返さない。


「俺たちが如何転んでもソイツには敵わない。……俺の推理が正しければな」
「……どの道、今はもう戦えそうも無いけれど……」


豪雨が、消える。
支配者ホウオウがこの世界から消えたサインだった。
後はロストたちを片付ければ、この騒ぎも収まるだろう。そのように思われた。

アークの抱く懸念は、倒すべきサナの能力。
それはもしかしたら、通常の攻撃スキルの上を行く概念の、ある意味で最強の能力では無いかと。


『×0』の力でさえ手が出せない、ある意味で最強の能力―――『+1』の力。
この場合、『−X』ならば『+1』を打ち消せる可能性があるが、『×0』と『+1』の相性は最悪だった。
高次の魔術師たちが用いる、この計算式による喩えは、それぞれの力の特性をよく表していた。

『×0』は、その名の通りあらゆる力をゼロにする無効化系防御能力。この能力の前には、『−X』でさえもゼロにされてしまう。だから、『−X』は『×0』と相性が悪い。

しかし、『+1』の力の解説文は、『末尾に1を付加してその効果を発揮する能力』である。
計算式で書くと、【×0+1】。ゼロの力では、最後に付与される『+1』を消せないのだ。
『−X』ならば、【−1+1】と言う風に、相手の『1』を予測して先出しすれば打ち消せる可能性がある。その点では、『−X』には、『×0』には無い強みがあった。

でも、後出しのジャンケンは、わざと負けに行かない限り100%勝てるように出来ているのだ。
『−X』が先出しで【−1】を書いたら、『+1』の使い手は【−1+1+1】と書き込める。最後に付与される+1は、どんな力を持ってしても打ち消せない。
唯一無二の打ち消し方は、『+1』を『書かせないこと』だけ。







事実、サナのスキル『最後の抱擁』は、まさに『最後に+1を付与する力』。
サナの場合、『1』に様々な意味を持たせて相手を意のままに操れるのだから。一対一ならば絶対に負けないと主張しているのも、頷ける。




アークの懸念はそれだけ。
でも、もしかしたら黒木全火ならば、『+1』を消せるかも知れない。

根拠の無い自信を持てるのは、アークの専売特許。
だから彼は全火を信じた。


折角、全火の望む『誰も犠牲にしない勝利』に共感したのだから。







…………









病院。
医師やスタッフが集う部屋は、まだ早朝と言う事もあり閑散としていた。
他の者は、別の部屋でまだ仮眠を取っているから、そこに居たのは若い男と老年の医師だけであった。
若い男が書類を片付け、口を開く。


「そろそろ特別患者の処置の時間ですよ」


病院の中は、平和なものであった。
ロストも入って来ず、故にこの異常事態の中にあっても、彼らは平常業務を続けていた。
早朝のこの時間、彼らには特別な使命があった。

学園に『沈黙』させられた患者の、『沈黙』を維持することである。
難しい事ではない。極秘に開発された薬を打つだけでいいのだから、それほど時間を要する作業でもない。
開院して一般患者が院内をうろつくようになる前の、人気の少ない時間にそれらの作業は終えられる。

だから、若い男は立ち上がって白衣を着込み、そのいつもの作業に移ろうとしていた。

でも、老年の医師が動かない。
優雅にコーヒーを飲みながら、新聞で碁・将棋のコーナーを読み耽っていた。


「……いくら外が異常事態だからって、サボっていい理由にはなりませんよ」
「………君は、何のために医者になったのかね」
「は……?」


老年の医師は残りのコーヒーを一気に飲み干し、カップを机の脇に置いた。


「金のために、一体何人をこの病院で沈黙させているのか。そんな非人道的な事をして、一体何になるというのか……」

「……何を言っているんですか。まさか、今になってやめようなどと……」

「………」


若い医師は、薄々気付いていた。この老いた医師が、己の過ちを悔いている事を。
でも、でもだからと言って、これを止められぬ理由もあるのだ。
これをする事によって得られる学園からの資金は、少なからずこの病院の継続を支えているのだ。
今更それを止めて、この先どうやって経営を続けるというのか。

医師を志したのは、人を救うためだ。
でも、人を救うためには、その土台が居る。病院が居る。
この世界の現実はブラックジャックのように甘くない。野良医者でやっていけるほど甘くなんか無いのだ。―――まして天才的外科技術など持ち合わせていない自分には尚更!


「人を救いたい。そのために、この病院を存続させる使命がある」
「そのために、救いたいはずの人から、生きる自由を奪ったとしても」
「後悔はしない。その人たちを沈黙させた事を、無駄にしないためにも……!」


青年が、部屋を出て行こうとする。
沢山の机が並び、職員室のような光景を呈する部屋を乱暴に歩き、色々と書類を床に散らしてしまったとしても、彼はそれが己の強い意思の現われである事を強調するかのように、歩を止めない。

でも、唯一の出入り口の前で、立ち止まった。
出口に近い側の席に座っていた老年の医師が、既に入り口に立ち塞がっていたから。


「……どいてください」
「………」
「……そこを、どけって言ってンだよぉぉぉおおおおおッ!!」


拳を振り上げ、殴りかかるが―――吹っ飛んだのは、青年の方。
伊達に年を重ねてはいないと言う事か。老年の医師は、平然とそこに陣取っていた。


「今日、変わらなければいけない。いつか変わるのを望むんじゃない。今日、変わらなければならないんだ……! この年になって、やっとその事に気付いたよ」

「そんなものは年寄りの戯言だ……! 理想と現実は違う! 僕は正しいんだ、人を救うために正しい事をしているんだッ!」

「お前がそれを正しいと思うように。私にも、信じる正義がある。―――ここを通すわけにはいかない!」


理想を語る老医師が居る。
現実を知る若い医師は、膝をついてそれを睨みつける。

―――解ってるよそんな事は!
―――自分がした事が一体どんな意味を持つのかくらい!
―――でも仕方ないじゃないか!
―――この病院を失って、人を救うことは出来ないのだから!

人として歪んだ事をした。
それを知りつつ、でもそれに押し潰されないためには。
それを、正義とするしかなかった。その罪を受け入れられるか如何かを分けたのは、年の差。

青年の頬を涙が伝った。
今まで必至に信じようとしてきた正義を否定されて悔しくて。
共犯のくせに裏切った目の前の男が許せなくて羨ましくて。
現実を知って、闇に手を染めてしまった自分が情けなくて。



「……俺だって、戻りたい……! もう、こんな事、したくないんだ……ッ」



泣き崩れる若い医師を、老医師は我が子のように思っていた。
老医師を決意させたのは、他でも無いこの我が子の様な男に、これ以上間違った道を歩かせたくなかったから。

老医師が彼に手を差し伸べようとした、その時だった。






――――。

複数の音がほぼ同時に聞こえてきて、不気味な不協和音を奏でた。
最初の、メキメキと言う軋むような音は、木造のドアを何かが貫いた音。
その後に聞こえたのは、……医者としては、とても身近な音。肉を刺す瞬間の、ブツリと言う皮が切れる音。

顔を上げなくても、だいたい解った。
涙を拭かなくても、だいたい見えた。
目の前の床が、……少しずつ、赤く……。


「ぐ……かは……っ」

「………爺さん……?」


恐る恐る顔を上げる。

ドアから突き出した真っ黒いモノが老医師の身体を貫き、その先端が次なる獲物を探していた。
でも、距離が届かないのだろう。幸い、顔面から串刺しにされると言う最悪の結末は実現しなかった。



―――ミシミシミシ……ズゥン……ッ!



黒い何かが引っ込み、老医師が倒れると同時に、ドアが、倒される。
周囲の机の上の書類やら何やらを巻き上げ、派手に倒れたドアの向こうに、二人組の男が立っていた。

彼らは、この部屋を見渡して、『何だハズレか』などと言っていた。
獲物を求めて影が徘徊していると言うニュースは聞いていたが。
今まで病院の中には入って来なかったから、中に居れば大丈夫だと思っていたのに。



「……なんだよ、これ……」



不覚。
デンリュウの最大の失態。

影は狙い撃った。特に病院周辺に大量に発生していた影の残党が病院に向かわぬよう、徹底的に。

でも、影を素体にしているとは言え、外見が人間のそれである『三賢者』を、デンリュウは見逃した。
……倒すべき影であることを、見抜けなかった。


若い医師が、老医師を抱き起こそうとするが、夥しい量の血が、床に散った書類を染めていく。







「……なんだよ、なんだよこれぇぇぇぇぇぇぇえええええええええええええええええええッッ!!」







三賢者、ライコウとエンテイが、そこに居た。





「ヒトの気配はするな。デカイ建物だ、何処かに隠れてるんだろうよ」

「俺が探してこよう。此処は任せたぞライコウ」















続く 
  
  
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