「こんな化物の群れを引き連れて町に逃げられるわけ無いだろうッ! 応援はまだかッ!?」
『そちらの位置が特定できない!』
「黒い雲を探せ! その下に居る! 今すぐ来い!」
『無茶を言うな! この異常事態でそう簡単に人員が割けるか! 周辺地区の隔離で手一杯なんだよ!』
「敵の目星はついてるのか!?」
『何処に聞いても知らないの一点張りどころか、全員がこの状況の対応を焦ってる感じだ。……あまり考えたくは無いが、俺たちが相手にしてるのは……もっとデカイ何かなのかも知れないぞ……』
「くそったれぇ……! どこぞの極秘研究機関のイタズラだと思いたかったんだがなァ……!」
『兎に角、応援は期待できない! 我々には、【影】を相手に戦うだけの力が無い!』
「俺たちに死ねってか!」
『………そういうわけでは……』
「あー悪ィ悪ィ! 俺たちが静止を振り切って勝手に飛び出したんだ気にするな! そうとうヤバくなって誰かに当たりたいところだっただけだ! 絶対生きて戻ると伝えろ! 余計な気ぃ回して俺らの死亡手続きをする暇があったらこいつらと戦う対策でも考えとけ! 切るぞ!」


バクフーンは乱暴に通信を切った。
多分、この車では二度と通話する事は無いだろうと思いながら。


「―――もっとスピードは出ないッスか!?」


ピジョットが叫んだ。
負けじとバクフーンも叫び返す。


「これが限界だッ! 影はそっちで何とか食い止めろッ!! 前方のは俺が全部かわしてやるッ!」


パトカーで逃げる彼らを追うのは影。巨大な鳥の影。
小さな黒い鳥がいくつも集まって出来たそれは、一つの巨大な鳥のように見えた。
でも決定的に違うのは、いくら真っ黒だからと言ってもそれらは合体などしていなくて、無数に輝く目がその全体のあちこちでギラギラと輝いていたと言う事だ。
その鳥目掛けて『ライデン』を射出しても、鳥たちは優雅に旋回してそれを難なく回避し、また追撃を開始してくる。撃っても当たらず、決して追うのをやめない。
距離が詰まるに連れて、その鳥たちの『声』とも何とも解らぬ奇怪な音が聞こえるようになっていた。
心臓をガリガリ引っかくような不快なノイズを伴って迫る漆黒の雲の中から、数羽が加速して迫ってくる。恐らく、消耗戦を仕掛けようとしているに違いない。小さな鳥を絶え間なく襲撃させ、こちらの体力を奪おうとしているのだ。それに攻撃が絶え間なく続けば、精神的にも疲労が蓄積するのは必至。特に、この状況で『ライデン』が当たらない相手を迎撃できる唯一の存在であるアーティとユハビィの負担は、あまりに大きかった。
既に後部座席のガラスも破られ、あちこちから鳥が侵入してこようとするのを最小限の力で破壊し続けなければならない彼らに対し、何も出来ないピジョットはせめて彼らの『目』となって鳥が襲ってくるのを見張り続けるしか無かった。

最初は後部座席だけだったのに、徐々に黒い鳥の攻撃が車の前方にまで及び始めているのが、後方の陰の群れとの距離が詰まっている何よりの証明だった。幸いだったのは、あの鳥たちがこの『車』と言う乗り物の構造を知らないために、タイヤを破壊すると言う発想を持っていなかった点である。
尤も、それもあと数分足らずで意味を失うのだが。

「あぁくそっ! 何を以って防弾仕様だよッ! 全然役に立ちゃあしねぇじゃねぇか!!」

―――バツンッ!!

鈍い音が車内に響いた。
もう何度目になっただろうか。早くもトラウマ決定の衝撃音である。
これが、一定のリズムで続き、最後に車の天井を貫通して黒い嘴が車内にのめり込んでくるのだ。
その時の何とも言えないガツンガツンと言う音が鳴るたびに、彼らは姿勢を低くして、せめて貫通と同時に脳天ぶち抜かれないようにするのが精一杯だった。

姿勢を低くした時、アーティが居る側の窓から、黒い鳥が飛来してくるのがユハビィの目に映った。
でも、アーティは身を屈めていたから、ちょうどその鳥が死角になっていたらしく、何も対応しようとはしていない。
ガラスは既に破られていたから、その黒い鳥は、真っ直ぐ入ってきてアーティを襲う。
その光景が、瞬間的にユハビィの脳裏に過ぎった。一流のテニスプレイヤーが、相手の打球を瞬間的に読み取るそれに近い。まだ見ぬ未来が漠然と、ユハビィの脳裏に次に取るべき行動を教えた。

窓の外を窺おうとするアーティの頭を片手で押さえ込んで車内に倒し、その上に乗り出して―――

「―――はッ!!」
「GRYッ!?」

本来は射出すべき遠距離攻撃スキル『エナジーボール』を纏った拳で、黒い鳥を叩き潰す。
その後、ユハビィは「油断するな、感謝しろ」と言う意味で親指を立ててアーティにウィンクした。
アーティも、自分が助けられた事を知り、ハンドシグナルで礼を言おうとする。

……でも、その時のユハビィは、『高過ぎた』。
折角身を屈めていたのに、アーティを助けるために彼の上を乗り越えて黒い鳥を迎撃したから、その位置が天井からあまりに近すぎた。


―――ズンッ!


アーティに、血の雫が滴り落ちてきた。
頭上のユハビィの頬が、真っ赤に染まっていた。


「…………え」


ユハビィは、痛みなど感じなかった。
黒い嘴が柔らかい肉を突き破る音を一番近くで聞いていたが、痛みなど全く感じなかった。






「……お、い……、コイツを、どうにかしてくれないか……ッ……!」




でも、ユハビィが痛みを感じないのは当然だった。
だって、彼女は何もされていないのだから。

バクフーンが、呻くように言う。その左肩に深々と黒い嘴が突き刺さっていたが、それでも彼はハンドルを手放さない。何事も無かったかの様な表情を必死に作りながら、運転を続ける。

……彼の肩から飛び散った赤いモノがユハビィの顔に浴びせられ、その下に居たアーティにも及んでいた。


―――黒い鳥の餌食になったのは、身を屈められないバクフーンだった。



直後、パトカーはクラッシュする。それと同時に黒い鳥が、腐肉に群がるハイエナのようにそれに覆い被さっていく。
……形が鳥なら、ハゲタカみたいに襲えばいいのに! でも影たちは貪欲で、一足先に獲物にむしゃぶりつく事しか考えて居ないから、仲間同士掻き分け合って獲物に嘴を突き刺すのだ。
それはハイエナですらない。……ハイエナなんか、この騒ぎに較べたら上品なものだ!


「……家で大人しくしてろって。……約束破ったんですから、仕方ない、……ですよね……」
「ふざけろよ、家に居ろなんて言われたら出たくなるじゃねぇか……! あの馬鹿は子供心ってのがまるで解っちゃいねぇぜ……!」
「じゃあ、その子供心とやら、しっかりキューちゃんに教えてあげないといけないですね……」
「そうだ。だからこんなトコで死んで堪るかよ! オイラは死なない、絶対に生き残ってやるッ、殺せるものなら殺して見やがれ影ぇぇぇええええええええッッ!!」











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迷宮学園録

第四十三話
『反撃/異界の王』

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――――学園旧校舎屋上。
目的など何も想定して作られてはいないその廃れた場所が、彼のお気に入りの場所。
そこには誰も来ない。空を飛ぶスキルでも無ければ、誰も来る事が出来ない。
何より、既に使われていないのだから、誰も来れる筈が無い。
だから、いい。誰の邪魔も入らないと言う事は、自分も手を出す必要が無いと言う事。
手を出す必要が無いと言う事は、即ち己の正体を隠すのには本当に都合がいいと言う事。

「最後だ。最後……もう、後が無いんだ……」

彼の手には、上半分が赤、下半分が白に塗装された球体が握られていた。
その球体の中に、彼のパートナーが居る。巨大なウミウシの怪物―――カラナクシが、入っている。

「いい加減、怖がってる場合じゃない……」

大きく深呼吸をして、気持ちを切り替える。
今までは死ぬのが怖くて、結局一度も、誰も守ることが出来なかった事を反省する。
ジャケットの内ポケに隠された『栞』も、結局一度も使うことは無かった事を反省する。
ゼンカと言う『参加者』が表で動くから、自分はその裏でいいと妥協していた事を反省する。

……栞を持つ者は記憶の継承が『出来る』から、後悔だけでは成長しない。
必要なのは、スキルの発動に必要なものと同じ―――『絶対の意思』。

今までは裏で、自分なりに策略を張り巡らせ、Xが利用し得る『武器』を破壊する努力をし続けた。或いは、Xよりも確実に『武器』を自分たちの陣営に取り込む努力をした。
それらの努力が無駄だったとは思わないが、今までのような動きをしているだけではゲームに勝てない事を認めよう。

古代兵器ラプラスは、既に手の届くところにある。
『そのヒント』も、既にアーティの手の中にある。
異世界の魔王も、自ら協力する姿勢を見せてくれた。
そして、彼は今頃デンリュウ宅からこの学園に向かって歩いている頃だろう。
その途中で、とある大物の弟君でも助けてくれているかも知れない。計算通り。

古代兵器と異世界の魔王の両方が既に手中にあって、一体何を畏れるのか。
将棋で言えば、相手の飛車と角を奪い取り、圧倒的優位を築き上げた状況に似ている。
そして自棄を起こした相手―――即ちXが、将棋には本来存在しない『ぼくのかんがえたさいきょうのこま』を持ってきてハシャいでいるのが、今の状況。
悔しいのはその暴挙を阻止する手段が無かったことであって、こちらはこれからその『さいきょうのこま』を真っ向から打ち破らねばならないと言う事。
でも、出来る。それは、出来るのだ。将棋の駒の取り合いに、力関係や優劣など無い。歩でも飛車を討てる。だから、いくら『さいきょうのこま』が暴力的な性能を誇ろうとも、ゲーム盤の上に於いてそれはあまりに脆いのだ。

彼の目には、3年校舎の昇降口で死闘を演じるハルクの姿がハッキリと見えていた。
『慣れ』の所為だろう。少し、豪雨も収まっているように感じる。
これだけ時間が稼げれば十分だろう。と、心に言い聞かせ、

「いくぞ、相棒……。目指せトリトドンだッ!」

屋上から、飛んだ。
そしてその足元に巨大なウミウシを呼び出し、頭の上に着地する。
影の軍勢は、突如として出現した怪物に気を取られるが、ウミウシはそれを気にしない。

「冷凍ビームッ!」

氷属性の攻撃スキルで最高クラスの威力を誇る光線が影の軍勢の中心に直撃し、巨大な氷の華を咲かせる。いくら影が倒せなくても、こうして氷漬けにして動きを止めることは出来る。
テロメアンブリザードには及ばないが、この影相手には十分な威力であった。

ハルクを攻撃する影たちの手が一瞬止まる。
突然現れた強敵に対し、脳内で照準の再設定を求められている、と言った様子だ。
だが、今のハルクにはもうその隙を突くだけの余力は残されていなかった。
突然の加勢に対し、僅かに顔を上げるだけが、今の彼の限界。

だが、限界なんて、この状況では突破してもらわなければ困る―――


「逃げるくらいは出来るだろう! 走れハルクッ!」


普通なら、その一言でありがたく逃げただろう。……普通なら。
それが偽善者精神旺盛な馬鹿野郎じゃない限りは、絶対に。


「―――っ……俺は、逃げるわけには……!」


……だから、ハルクは逃げない。たとえ逃げろといわれても、絶対に逃げない。
ハルクはこの状況に於いて、とても厄介な性格をしていた。
このカラナクシの使い手が唯一読み違えたのは、そのハルクの性格だった。

どんなに追い込まれてギリギリになろうとも、命在るうちに助けられれば逃がす時間は与えられると思っていた。でも、ハルクが逃げないとなると、こんなギリギリまで時間を引き延ばしていた意味が、無くなる。


「――あぁもうッ、どうしてこの学園はこう……馬鹿ばっかりなんだよ!」


彼の読みでは、この影には操り手が居るはずだった。
これだけの大量の影が、これだけの統制された動きを見せられるはずが無いと。
この影全てに共通する『学園に敵対する行動』は、全てその目的を持つ何者かの仕業なのだ。
それがXなのか、他の誰かなのかは解らない。でも、そのどちらにしても、それは倒すべき敵。
それを倒さなければ、ゲームの勝利は無い。ゲームの勝利が無ければ、彼は元の世界には帰れない。

―――元の世界に帰るために、絶対にそれを倒さなければならない。

その倒すべき敵のために先ほどまで屋上で力を蓄えていたのに、その所為でハルクが逃げずに殺されてしまっては本末転倒だ。だから、こうなってしまったら、ハルクを助けに行かざるを得なくなる。
でも、彼を助ける術は一つしかなかった。
先ほどまで蓄えていた力を解放して、ハルク周辺の影を一瞬で沈黙させる事。
やれば出来る。それは可能だ。でも、それをすると、折角蓄えた力も失われ、『倒すべき敵』との戦いが、より厳しいものになるのは必至。

……そんな状態で勝てるのか?
万全な状態で戦わなくて、本当に倒せるのか?

渦巻く疑心が身体の内側から行動を支配しようとする。
今まで何度も、その疑心に身を預けて消極的な戦いをしてきた事を、不意に思い出した。
―――それをやめると誓ったのだから、もうそいつに負けるわけにはいかない事を、再認識した。


「……我侭言ってる場合じゃないって、さっき決めたじゃねぇかッ!」


守れる力がありながら、世界がやり直せるのを知っていて何度も見殺しにした。自分だけを守り続けた。そんな自分が嫌だった。
―――もう、誰も『守らない』のは嫌だから。





本当は、ただの人間。
魔法の発達しない世界から来た、人間。
でも皮肉にも、この世界の誰よりも魔法に愛された、人間。
ミリエが選んだ、唯一の『参加者では無い駒』。

ミリエは、エックスが持ち掛けてきたゲームの、ルールの穴を突いて彼を呼び出した。
・選べる参加者は一人まで。
・積極的に接触が許されるのは、その参加者のみ。
つまり、参加者以外の駒を用意してはいけないと言うルールは、無かった。

エックスにしてみれば、ミリエがどんな駒を持ってきても叩き潰す自信があったのかも知れない。
だから、敢えてこんな穴を残していたのかも知れない。
ミリエが、表向きにはこの穴に気付かないフリをしたのを見て、エックスは内心高笑いをしていたのかも知れない。

ミリエがゼンカに与えたのは、栞だけ。
ゼンカと言う駒を信頼していたから、他に何も与える必要が無かった。
そして、名も無き人間に与えたのは、栞と魔法の才。
力の大部分を制限されたミリエにとって、魔法の才を与えるのはかなりのギャンブルであったが、元来ギャンブルを愉しむ性格のミリエにとっては、それは寧ろ『より面白い展開』を期待できる一つの選択肢に過ぎなかった。そして彼女はその選択肢を喜んで選び取った。

圧倒的な魔法の才能に恵まれた、カラナクシの使い手。
あらゆるチカラを寄せ付けない力を手にした黒木全火。

それは、結果的にそうなっただけのことであって、ミリエがこうなるように仕組んだことと言えば、敢えてゼンカに何も与えなかった程度の些細なことだけだ。
後は、全て運任せ。なるようになれ、超界者は傍観するのみ。

魔法の才を与えてしまった事で極端に力を消耗したミリエが、ゼンカの記憶を世界の中に持ち込むのに失敗してしまったことのみ、唯一彼女が積極的に動いた事例と言えるが、まぁ、それは如何でもいいことだ。カラナクシの使い手が、ただ巨大な相棒に頼りきりの脆弱な人間では無いと言う事が、絶対の真実。それ以上の情報は、蛇足に過ぎない。





「―――『連鎖する光鎖の魔導』ッ!」


蓄えた力の一部を切り離し、エネルギーに変える。
今まで蓄えていたのは、波導の上位互換エネルギー、『魔導』。
人間如きがとても扱っていいエネルギーでは無かったが、ミリエの魔法の才を受け継いだ彼は、瞑想を行う事で一時的に魔導を体内で生成することが出来た。

その一撃は、波導の千倍。気力の100万倍。
しかし彼のスペックではそこまでの力を引き出すと身体が持たないから、実際は実物の数%にも満たないが、それでも魔導の攻撃力は気力を2桁ほど上回る攻撃力で対象物を攻撃する。

『連鎖する光鎖の魔導』はミリエの魔法の一つ。
射出した光の鎖が対象物の身体を貫き、さらに別の対象物目掛けて飛んで行き、実力次第では千の軍勢を光の速さで沈黙させる事も可能な魔術である。
彼の場合は、せいぜい20人を束縛するのが関の山だが、それでも光の速さで20人を沈黙させる攻撃力は、人間のレベルを大きく超えていた。
何せ、魔導のスキルは、何種類でも同時に使うことが出来るのだ。予備動作も何も必要ない。体内の魔導を切り離して、後は発動する意志だけで魔術が決まる。つまり、20人を同時に沈黙させながら他の魔導でさらに別の敵を相手に出来るのだから、とても人間技ではないと思われて当然。

前方の20の影を光の鎖で捉え、跳ね飛ばし、その空いたスペースに走りこむ。ハルクとの距離が一瞬で詰まる。ハルクを囲んでいた影たちは、突然自分たちの近くの仲間が吹っ飛ばされて、ますますハルクを攻撃している場合ではなくなっていた。
だが、影も呆然としているばかりではない。
空いたスペースに入り込んだ男は、言わば自ら死地に飛び込んだに等しい。
周囲を囲む影たちは新たな獲物の到着に歓喜し、当然の如く一斉に飛び掛る。

……それは、ただただ哀れな光景。
まるで、ネズミ捕りに仕掛けられた穴あきチーズに鼻先を伸ばすネズミを見ているかのよう。


「『残存する雷撃の魔導』―――」


一斉に飛び掛った影たちは空中で捕縛され、一匹残さず焼却処分される。その光景は、アークが使っていた電流処刑に良く似ていた。
周囲の影が一斉に飛び掛ってくるのを防いだのは、『残存する雷撃の魔導』。瞬間的破壊力が地上最強と謳われる雷が、召喚されてから一定時間残存し、触れたものを容赦なく感電させる恐るべき魔術だ。
彼の力では2秒ほどしか持たない雷の網だが、威力だけは影を焼却するのに十分。

雷の網の下を駆ける彼の前に、さらに別の影が割り込んできた。だが、それはカラナクシの冷凍ビームによって凍結処分される。
愚鈍で巨大なカラナクシが影の攻撃を寄せ付けないのは、この豪雨によってカラナクシが大幅に強化されていたからだけではない。カラナクシの皮膚は、易々と影の一撃を受け入れるほどヤワな構造はしていないのだ。まして、その巨体を支える皮膚を持っているのに、そう簡単に黒い鳥の嘴が内部まで及ぶはずが無い。
刺さっても、ほんの数センチ。カラナクシの内部までは絶対に届かない。
巨体であるがゆえに、攻撃を苦にしない防御力が、この怪物には備わっていた。

影如きに、この二つの怪物は止められない。
だから、迷いを捨てたカラナクシの使い手は、あっという間にハルクの許に駆けつけ、彼を助け出す。

「……く……余計な、事を……」
「おおう、このイケメンに助けてもらった事を感謝するのが先だろう!」

傷ついたハルクが悪態をつくので、まぁ大丈夫だろうと踏んでそのまま3年昇降口の中に放り込んだ。
ミッションコンプリート。後は力を温存しながら影を蹴散らし、真打ちが登場してくるのを待つばかりだった。








…………








豪雨は一向に収まる気配を見せなかった。
アディスを襲った影を精一杯の攻撃で破壊したフライアではあったが、彼女の力では全力で一匹の鳥を落とすのが限度。それ以上は、抵抗することも出来なかった。
既に囲まれていたから、逃げる事も出来なかった。

でも、……彼らは、本当に運が良かった。
もし、登校したのがこの時間で無かったなら。
もし、影から逃げるために、この場所まで来る事が無かったら。
全てが偶然の積み重ね。

……だけど、ハルクの電話を受けてフライアが家を出るのは、必然。
その際、付き添いにアディスを選ぶのも、必然。
アディスが家を出る準備に、最低30分をかけるのも必然。
影に襲われた時、真っ先に誰かに助けを求めようとするのも必然。
『誰か』に、学園の教員を選ぶのも必然。
そして、一番頼りになる、デンリュウ校長を選ぶのが必然なら。
彼らが最終的に、この場所まで辿り着くのは、必然の結果だったと言う事。
その必然には、当然アディスの実力が含まれるわけで、彼の実力ならば『この場所』まで辿り着くことは、100%可能なことであったわけで。

偶然だけど、必然。
それは運命と呼ぶべきかも知れないが、何度もやり直すたびに違う展開を見せるこの世界では、運命など安っぽい言葉の代名詞に過ぎないかも知れない。
要は、彼らがこの場所に辿り着くのが必然であったように、もう一人、この時間帯にこの場所を訪れるのが必然だった男が居たと言う事だ。
彼もまた様々な必然の積み重ねによって、偶然にもこの場所に居合わせることとなっていた。

気絶したアディスを抱き、どうかこの現実が悪い夢で、今すぐ覚めてくれる事を祈りながら、フライアは豪雨の中で座り込んでいた。周囲の影がジワジワと迫ってくるのが、永遠のようにさえ感じられた。
実際は、ごく一瞬の出来事だったのだろうが、フライアにはこの恐怖が、永遠に続く拷問のように思えて仕方が無かった。


だから、影が本当に何時までも襲ってこないことに気付いたフライアは、やっと『もう一人』の存在に気付く。不運にも、この時間にこの場所に来てしまった、一人の見慣れぬ男の存在に。
……いや、よく見れば、その男の背中で眠っている少女には、とても見覚えがあった。
だって、それはクラスメート。2年生四天王として有名な、『あの』リシャーダの妹、―――フィノンだったのだから。




「不運なのは、『全員』だな。……この展開は、予想してなかった」




影が襲ってこないのは、『格』の差。
カラナクシの使い手はこれを将棋に喩え、駒に優劣が無くただの取り合いになると考えた。
でも、それは厳密には誤りで。

『影』と『魔王』の間に存在する宇宙の如き『格』の差は、そもそもお互いに触れる事さえもルール上認められないものになっているのだ。




「失せろ、影ども。いくら異界から来た者同士でも、俺は貴様らと馴れ合う心算は無いぞ」




影が、一斉に退いていく。
その一言だけで、一目散に散っていく。
誰一人として、襲い来る者は居ない。

当然だ。
影は本能だけで動いているようなものだから、本能には逆らえない。
絶対に勝てない相手には、命令でもされない限り手を出せないのだ。

……いや、この場合にのみ、それが顕著だっただけかも知れない。
影たちの『食肉欲求』は凄まじく、相手との実力差など無視して襲ってくるのが普通だ。
だが、目の前の『魔王』だけが別格過ぎたから、影たちはそれを『獲物』と認識できなかったのだろう。


「……大丈夫か?」
「えっと、あの……」
「立てるか……?」
「あ、はい……」


魔王が外見よりもずっと紳士であったために、フライアは思わず言葉を忘れ、差し出された手を借りて立ち上がった。魔王は、その背にフィノンを背負っているのに、さらにアディスまでも軽々と小脇に抱えてみせる。


「傷は深いが、命に別状は無さそうだ」


そう言って、アディスの背をひと撫でする魔王。
その瞬間には彼の背中の、黒い鳥に刺された傷は完全に消え失せていたのだが、フライアはそれには気付かず、ただ魔王が歩いていく後を追うのだった。











続く 
  
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