目指したのは校長室。
授業も始まる時間だったので、俺は誰の邪魔も受けず1年校舎の中を駆け抜けることが出来た。
走りながら、滾る心に冷水をぶっ掛ける。
熱くなりすぎるなよゼンカ、大丈夫だ、手元には栞がある。

たとえ手遅れになろうとも。
必ず最後に勝てればいいじゃないか。
……いや、そんな考えじゃダメだと誓ったはずだ!
くそっ、混乱しているぞ……このままじゃ、もし、『敵』に出会ったら危険だ……!

心臓が焼けてしまいそうなほどに煮え滾る心は、全てを黒き炎で包み込んでしまいそうな殺意。
もしもサンダーやフェルエルに万が一の事でもあってみろ、犯人は見付け次第―――消す!

……そんな状態だったから、と言うわけでは無いが。
俺は、『それ』が何時からそこに居たのか、解らなかった。
こんなに全力で走っていたのに、まるでずっと前から俺に話しかけるタイミングを計っていたかのように、そいつはそこに居たのだ。
存在感が、人間のそれとは違う、そんな錯覚に囚われた。


「ねぇ」


―――時が、止まっていた。
そう思ってしまう程に、俺は突然の事態に思考を停止させていた。
目の前に現れた者が、何の躊躇も無く俺の心臓を一突きするような殺人鬼では無かった事を、漸く状況を整理できるようになってから全力で感謝する。

立っていたのは、『見たことも無い少女』。
背後に立っていたそいつに対して俺が振り返ったのか、それとも最初から俺の目の前に居たのか、そんな事さえ今は考える余裕が微塵も無かった。
解っているのは、目の前に立っている奴が、今まで俺に何の関係も無く、そもそもこの学園に居たかどうかさえ怪しいと言う事だけだ。いや、こればかりは断じていい。


「お前、誰だ………」


コイツは、『今日』現れた。
『昨日』までは、居なかった。俺を取り巻く環境の中には、絶対に居なかった。

……確かに俺は、今の1年と共に過ごした期間など、時間にして100時間にも及ばない。知らない顔だって沢山居るだろう、しかし―――女生徒にかけては、そこそこ詳しい心算だ。
何故なら、四天王の職権を行使したサンダーが1年生女子の名簿を手に入れていて、その中から可愛い子を目利きしていて、俺もそれに付き合わされていたのだから。
だから、俺にとって1年女子の顔は、名前と一致こそしなくてもほぼ全員に『見たことある』と言う認識を持っている。

なのに、俺は、この女は―――『知らない』。俺は、少なくとも、コイツを見たことは『一度たりとも無い』。かつて1年校舎の中を、様々な理由で駆け回ったことが幾度と無くあったが、しかし。
1年でも、2年でも、3年でも、絶対に見たことが無い。廊下で擦れ違ったことも無ければ、全校集会の時にも見掛けたりなどはしていない。
そもそも、一度見たなら忘れるものか、こんな特徴的な髪型の女、そうそう居るもんじゃない。
茶髪なら数人居る。しかし、まるで獣の耳でも生えているかのような癖っ毛に、髪の先端だけが白と言う独特の配色なんて滅多に見れるモノじゃない。その上マフラーで口元まで隠して、いかにも根暗そうなヤツだ、こんなの一度見たら十分忘れないに決まっている。

結果として、俺は憶測を確信する。
今までこの学園に『居なかった』、第三者が現れた―――今は、どう甘めに見積もってもそう考えたほうが、自然で最良だった。
まさか、X? とも思ったが、やはり違う。確証は無いが。
X以上に理解不能な相手な印象は拭えないが、コイツはXとは違う存在だ。
そう、どちらかと言えば、『俺』に近い印象の……。


「何を急いでいるの? くすくす……少し、お話しましょうよ」


あぁ、そうか。やっと解った。
この得体の知れない不安感は、俺の本能がそうさせているんだ。この女の目が、他人の心を勝手気ままに見透かすような怪しい輝きを灯し、それで居てリシャーダのように真っ直ぐではなく、酷く歪んで、他人を見透かすくせに自分は絶対に見抜かせない拒絶の色で淀んでいたからだ。

今……直感した。この不安の正体は、恐怖。

俺はコイツを知らないけど、コイツは俺を知っている。
そして、俺は絶対に、コイツに関わってはいけない。気がする。

――何処まで知られているのか解らない。

コイツは俺の事を『個人的』に知っているのだろう、俺が個人的に知られるような事があるとすれば、それは―――ボロボロマントの女との約束を果たすために、この学園にて仮初の学園生活を送っている、と言う事だけだ。

何処までだ……。
この女は、俺の事を何処まで知っている……!
怖がっている場合ではない……!
探るんだ、この女の目の、僅かな変化を見逃さないために目を逸らすな……!

俺は、心のどこかで杞憂である事を祈りながら、出来るだけ動転していることを悟られぬよう、極めて冷静な表情を作る努力をしながら、少女を睨みつけた。

結果、俺の祈りは、無残にも、打ち砕かれた。


「欲しいなぁ」
「……何?」
「持ってるんでしょ?」
「……何を、だ……」




グッと拳を握り締める。
冷や汗が頬を伝った。
心臓がハチ切れんばかりにバクバクと鳴っている。

もう既に、走り出す準備は出来ていた。

次の瞬間には、俺は絶叫しながら走り出しているだろう。
その時、この女は俺に突き飛ばされて転び、俺の後をすぐに追うことは出来ないに違いない。



さぁ、言え、もう覚悟は出来てる、さっさと次のセリフを言いやがれ……!






「栞」





弾かれたように、脳の指令が全身を駆け巡り、筋肉を緊張させる。
その一言目で、続きを待たず、俺はもう走り出していた。
少女は、俺から目を逸らさず、突然突進してくる俺を如何するでもなく、避けもせずに、セリフを続けた。




「私にちょうだいよ。くすくす……きっと、私のほうが上手に使ってあげられるから……あははははははははははは!」




「………ぁぁぁぁぁああああああああああああッッッ!!!」


俺は―――叫びながら、俺を嘲笑う女を突き飛ばし、無我夢中で走った。
何処でもいい、此処じゃない何処かへ、アイツが居ないどこかへ逃げなくては!
振り返ったらそこにそいつが居るような気がして、俺は前だけを見て校内を駆け抜けた。
女の笑い声が、何時までも耳にべっとりと貼り付いて、離れなかった。








「くすくす……今更足掻いたって、もうキミはゲームオーバーなんだよ、ゼンカくん。くすくす、あははははは」


少女はゆっくりと起き上がってから、俺が走り去っていった方向をジッと見つめ、低く笑うのだった。






…………





「はぁっ、はぁっ、くそったれ、何だってんだ一体……! 何なんだアイツは……!」


気が付いたら、男子トイレの個室の中に居た。
壁に手をついて、荒げた呼吸を整える。
今が授業中で、誰も居ないのが幸いだった。

突然現れた、あの女は、栞の事を知っていた。
つまり、この世界のロールバックの事を、知っていると言う事……!
それだけじゃない!! 「私なら上手く使える」とまで言いやがったんだ……!

冗談じゃない、冗談じゃないぞ、そんな事を……しかし、実際どうだ……?
本当に、俺のほうが栞を上手く使える保証があるとでも言うのか?
……俺は、栞を使うタイミングを逃して、危うく取り返しの付かないところまで追い込まれた事しか、今までしてこなかったじゃないか……!!

そして、もしかしたら、今だってそうだ……既に、栞を使うタイミングを逃しているのかも知れない……何が正しくて、何が間違っているのか、解らない、ワカラナイワカラナイ……。

……くそったれ、何考えてるんだ俺は!!
冷静になれ、この栞は俺が託されたんだ、俺以外の誰かに渡す選択肢は最初から無い!
そうさ、最初から存在していない選択肢に何を迷う必要があると言うのだ?
馬鹿馬鹿しい、さっきまでの俺は一体何を考えていたのやら、ははは。


「く……ふ、ふふふ……」


自然と、笑みが零れていた。


「ふははははははっ! はっはははははははははははッ!!」


腹の底から、全てを解決した歓喜の笑みが。


「なに、悲観する事も無い……アイツが何者かなんて如何だっていい。栞を俺より上手く使えるだの、あの腹の底からムカつく程の馴れ馴れしさだのが何よりの証明だ……。アイツは、俺の『敵』じゃない」


だからと言って味方とは思いたくないが。
敵じゃないのなら、利用価値はあるというものだ。


「利用してやるぞ、そして、このゲームに勝ち残ってやる……!」






…………






午前中の、全ての授業が終わった。
フェルエルとサンダーは、まだ戻らなかった。
俺も暇を見ては思い当たる場所を探したが、まだ彼らが教室に戻らないと言う事は、つまりそう言う事である。

例の女のこともあり、利用してやると開き直ってこそみたものの内心かなり凹んで居た俺は、折角の昼休みだと言うのに机に突っ伏したまま、昼食も食べずに居たのだった。
そこへやって来たのは、いつも俺に絡んでくるYOSの連中ではなく、教室の中では滅多に寄ってこない―――リシャーダだった。


「随分じゃない」
「……何が随分だよ」
「色々よ。それより――」


一旦、リシャーダは周囲に目をやった。
誰も、俺とリシャーダの会話を盗み聞きはしていないのを、確認しているようだった。
殆どの連中は学食を食べに食堂に行っているし、残った連中は仲良しグループで楽しく駄弁りながら購買で買ったらしきパンを食べていた。
それでも一応、念のため声を潜めてリシャーダは言う。否、問う。


「何が起こっているの?」
「お前には関係ない……」


気だるげに、俺は言い捨てた。
机に突っ伏したまま。目も合わせずに。


「フェルエルとサンダーが揃って戻らないなんておかしいわ。何か隠してるんじゃないの?」
「隠してるよ。隠してる。隠し事が苦手なこの俺が頑張って隠してるんだから、詮索すんなよ」


もう、投げやりだった。
折角隠してるんだから、掘り返さないでくれ。と。
宝物を埋めるところをわざわざ見せ付けてから、絶対に掘り返すなよと言っているに等しい。
良心が働くなら、普通は掘り返さないのだろうけど。
例えばその宝箱を埋めたのが自分の兄弟だったりしたら、きっと掘り返すんじゃないだろうか。
その気持ちは解る。同じ四天王として、リシャーダの気持ちは解るけど。

けど―――


「俺は、フィノンのこと、結局掘り返さなかっただろ? お前も、俺の隠し事……掘り返すなよ」


なんて、身勝手な理屈だろう、と我ながら嘲笑したくなったが、それ以上に身体が気だるくて、重くて、どうにもならなかった。
疲れているんだ、あの女に出会ってしまった事で精神が。
フェルエルとサンダーを探して校内を駆けずり回った事で、身体が。

今はこのまま眠りに堕ちたかった。














「嘘吐き」



リシャーダが、小さく呟いたその一言が、心の奥底に突き刺さった。



「もう勝手にすればいいわ。どうせ、私は最初から『独り』だから」



今までリシャーダに馬鹿にされたり傷付けられた事は何度もあったけど。
今日のは、……一番効いた。
この瞬間、俺は大事な約束を一つ、破ったんだ。
あぁ、栞を破きたい、やり直さなきゃ。でもこんな事でロールバックは出来ない。
やり直しが出来ないから、今出来る事をやらなくちゃいけない。
そう、今すぐ起き上がって、謝れ、俺。
なんて大馬鹿野郎なんだ俺は。約束したじゃないか……リシャーダを、独りにはしないって……。
早く、謝らなきゃ……今すぐ、隠し事を、出来るだけ伝えなきゃ……。
そうしないと、いけない気がする……。気が、するのに……。

………。



結局俺は、放課後まで、死んだように眠り続けていたらしかった。
夜中に目を覚ました記憶ならおぼろげにあったが、しかしこんなに一日中寝てばかりな日も珍しかった。
此処のところ、特に4月に入ってから、精神的なストレスが自分でも解らないほど溜まっているのだろう。それを睡眠と言う手段で回復しようとする自分の身体の単調な構造には苦笑するしかないが、しかしこうも寝てばかりも居られない。
放課後、まだまだ寝足りない気分ではあったが、兎に角『今起こっている事』の情報を集めたくて、俺は校長室を目指した。
……1年校舎に行くと、またアイツに会うかも知れない。
それは確かに嫌だったが、それ以上に俺が目を覚ました時、既にリシャーダが帰宅してしまっていた事の方が心に強く残っていた。

謝る機会、逃したな……。
明日、朝一番で謝ろう。

俺は自分の心にしっかりと約束して、一旦思考を切り替える。
校長室に行けば、ボロボロマントの女に会えるだろう。
あいつなら、栞の事を知っていた耳女(仮)のことも、何か解るかもしれない。

漠然と問うべき事を頭の中で整理し、俺は校長室を目指すのだった。








…………










ボロボロのマントを着た少女は、長い髪を揺らしながら、校長室の中で実態化していた。
当然、空間は宇宙を想起させる背景に彩られ、平衡感覚を狂わせている。

彼女も、ある異変に気付いていた。
気付いていたからこそ、こうして実態化していたのだ。
実体化して、そろそろ来るであろう『ある人物』と話すために。

しかし、それは『ゼンカ』ではない。
これから校長室へ来る人物は、ゼンカよりも、彼女の側の『存在』だ。


ギィィ……と、扉が重々しく開かれる。
そして、音も無く『それ』は入り込み、扉を閉めた。
外の光も入らなくなり、校長室は完全に漆黒の世界と化す。
しかし、その漆黒の中にありながら、互いの姿だけはハッキリと映し出されていた。

先に口を開いたのは、校長室に招かれし客人の方。


「いいザマね。似合ってるわ、その情けない姿」
「アンタねぇ……後で覚えときなさい。絶対泣かすから」


口元をピクピクさせながら、ボロボロマントの女は売り言葉に買い言葉を返した。
しかし『客人』はそれ以上の挑発はせず、本題を切り出す。


「実態化してるのも辛いのでしょう。さっそく本題だけど」
「いちいち嫌味な子ね……」
「随分楽しそうなゲームをしているようじゃない?」


『客人』の言葉に、女の表情が変わる。
触れられたくないモノを見つけられてしまった、そんな表情だった。
それに気を良くした『客人』は続ける。


「そのゲーム。私も参加することにしたから」
「―――っ!? な、何言ってるのアンタ……!」
「あなたの『駒』を出し抜いて、私の用意した『駒』が先にXを捕まえる。私は、あなたには負けない」


それは、挑戦状。
Xを巡るゲームを舞台に始まった、もう一つの戦い。


「…………アンタ―――馬鹿な考えはやめ……ぐっぅ…」
「実態化と言っても、どうせまた人体の構造的に内臓がスカスカなんでしょ? あまり大声出すと身体に響いて死ぬわよ?」
「くっ……、はぁ……、……馬鹿、言ってないで……手を、出さないで……ッ」
「お気遣いのところ悪いけど、私は何時までも足手まといでなんか居られないの。トワの一員として。あなたを超えるわ、ミリエ先輩」
「ノア……ッ、ま、待ちなさいノア……!! ぐぅぅ…っ!」


踵を返し、校長室を出て行く『ノア』と言う名の存在を。
ミリエと呼ばれたボロボロマントの女は、ただ膝をついて見送る事しか出来なかった。





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迷宮学園録

第十八話
『二人目の参加者』

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続く 




  

  
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