ラーメン業から開放されたのは夜10時。
フェルエルが最後の仕込を終えたのを見届けた俺は、漸く休めると両手を伸ばした。

「お疲れ、ありがとうな」
「二度と手伝わせるなよ……ちくしょう、両腕が死ねる……。お前、よくそんな平然としてられるよな」

両腕を伸ばして、そのままテーブルの上に上半身をうつ伏せる。俺の視界には、後片付けも終えて尚平然としているフェルエルの凛とした姿が映っていた。
疲れを見せる事を良しとしない癖があるのは知っているが、しかし本当に我慢強いよなぁ。と感心する。

「我慢強い、か……」

不意に―――フェルエルの表情に陰りが見えた。
何か触れてはいけないところに触れただろうか、この1年の経験値を振り返るが、フェルエルに関して闇の部分と言うのを俺はまだ知らなかった。
いや、本当に我慢強いからこそ―――今日まで、解らなかったのかも知れない。

「時々、何もかも投げ出したくなる時もあるさ……」
「………」

フェルエルは、2年生四天王として色々と背負う物も多い。……多いが、それ以上にデンリュウ校長の隠れた腹心として表に見えない努力を積み重ねているのだ。
俺だってそこそこのモノを背負っている心算ではいるが、俺とフェルエルは個体として全くベツモノ。同じ基準で、易々とフェルエルの苦労を察してやる事など出来ない。

だから、俺はせめてフェルエルを少しでも励ませるように、言う。

「投げ出してもいいだろ、たまには。自分の好きなように生きてこそ人生ってモンだぜ」
「ふっ……何を馬鹿な。私は何も投げ出さんよ。投げ出さない事が、私の人生だ」
「……そうかい」

俺の心配は、杞憂だったようだ。
フェルエルはまた元の不敵な表情に戻り、俺を小馬鹿にするような笑みを返してくれた。
これこそが、フェルエルの本当の強さなのだ。
二兎を追って、二兎を得る強さを持ち。獲らぬ狸も必ず獲ってしまう、古き時代の言い回しを根底から打ち破ってしまうのが、このフェルエルと言う女なのだ。俺に出来るのはうつ病患者を相手にするような「よく頑張ったな」では無く、純粋に背中を押す「頑張れ」。そして、俺もまた隣に立って支えてやる事。

「たまには俺も頼っていいんだぞ?」
「お前に頼るくらいならリシャーダに頼むから、心配するな」
「そーかいそーかい! 良いお友達をお持ちのようで!」
「あっはははっ、拗ねるな拗ねるな。安心しろ、ちゃんと頼りにしてるからな」
「……おう、任せとけよ」
「ラーメン屋の仕込みとか」
「それは自分でやれーーーーッ!!」

拝啓、お袋様。
フェルエルと言う人間が、私にはわかりません。


その後、教室に置きっぱなしだった荷物を取り、もう家に帰るのも面倒だったので学校に泊まる事にした俺は大浴場で一頻り今日の疲れを癒して、あっという間に就寝した。
たまーにだが、この学園に備え付けられている寝袋の感覚が懐かしくなってしまうのだ。
その点で言えば、学校に泊まるのが久々である事も含めて、今日はゆっくりと眠る事が出来そうだった。

まぁ、そんな小難しい理屈も、寝袋に潜って僅か10秒程度で俺の頭の中から消え失せ、夢の中にすら微塵も登場しなかったのだが。






そして、翌朝。

「うーむ……」
「どうしたゼンカ」

早朝6時。
目を覚ました俺は、何か大事な事を忘れたような気がして、それを何とか思い出そうと唸っていた。
そして、漸くそれを思い出して、フェルエルに問う。
実は夜中にちょっと目を覚ましたんだが、その時同じ教室で眠っていたはずのフェルエルの姿が見えなかったのだ。一体、何処に行っていたのだろうか? と。

「あぁ、喉が渇いたから表の自販に行っていたぞ」
「結構長く戻らなかったんじゃないのか? 偶然にしたって、お前が居ない間に俺が目を覚ます事も無いだろうに」
「小腹が空いていたからな」
「またラーメンだったのかよ!!」

年頃の娘が夜中にラーメンなんか食べるんじゃありません!





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迷宮学園録

第十七話
『フライング』

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「会長、こちらの資料上がりましたので、此処に置いておきますね」
「………」
「……会長?」
「ん、あぁ、何だ?」
「……少し、休まれた方がよろしいのではないですか? 最近、顔色悪いですよ、会長」
「………そう、かも知れないな……少し仮眠室に行ってくる。30分だけ、一人にしてくれ」
「はい、解りました」


仮眠室は、生徒会室に備え付けられた休憩用の個室だ。
中には休憩用のベッドやソファ、テレビ、小型の冷蔵庫など各種アイテムが揃っており、各々望む形で休憩する事が出来る。
ハルクは、仮眠室に入ると、そのままベッドに倒れこんだ。
そして、ベッドの上で半回転し、仰向けになって左腕を顔の上に持ってくる。

腕の隙間から見える白い天井をボンヤリと視界に入れながら、ハルクは考えていた。


(あれからずっと、頭が回らない……)


ゼンカに対する劣等感。
Xの脅威。
終わらぬ雑務の山。
同じ生徒会役員への、疑心。

負の感情が渦巻き、心を惑わしてくる。

ダメだと解っていても、それは氾濫する川のように。
理性と言う名の堤防を容易く乗り越え、積み上げてきた何かを―――飲み込む。
自分が見えなくなってしまうような錯覚。

この感情に、1秒でも長く囚われて居たくなかった。
ハルクの心の中で、押し殺していた感情が騒ぎ立てる。
Xを炙り出す方法は、『ある』。
それがXの狙いだとしても、それを経る事で必ずXを捕える方法が。

この学園を、血で染め上げて、………Xに当たるまで、………片っ端から、………。




「……長。会長〜?」

「―――っ………な、なんだ……?」

「もう30分以上経ちましたよ〜」

「す、すまない。すぐ戻る」


何時の間にか眠ってしまっていたらしい。起き上がると、激しい頭痛に襲われた。
この身体は、自分が思っている以上に疲労困憊しているようだと、ハルクは苦笑した。
疲れ切っているから、要らぬ雑念を抱いてしまうのだ。
少し休もう、仮眠などでは無く、暫く休ませて貰おう。

ガチャリ。仮眠室の扉を開く。
そして目の前に広がった光景に、ハルクは言葉を失った。

そこには、ハルクが休んでいる間に、少しでもハルクの仕事を減らそうと努力する生徒会役員が居たのだ。


「おはようございます、会長」
「ヨハネ、これは一体……」
「ふふふ。物好きな連中に好かれているみたいですねぇ、会長も」


ヨハネ―――生徒会役員で、かなり仕事が出来るくせにサボりがちと言う厄介なヤツだが、その腕には移動途中の大量のファイルが抱えられていた。
普段は此処に居こそすれど何もしないコイツでさえ、こうして精力的(?)に仕事に励んでいたのだ。


「僕も、その物好きの一人ですがね。ふふふ」


そう言って、ヨハネはそのファイルを本棚に仕分けしていった。
ハルクは、声も出ない。出せない。
黙々と仕事に励む彼らの邪魔が、ハルクに出来るはずが無いのだから。
あぁ、自分は、一体何を馬鹿な事を考えていたのだろう。ハルクは己の不甲斐無さを責める。
責めると同時に、立ち上がる。もう迷わないと、心に決める。
Xなどに屈したりはしないと、この学園の全員のために誓いを立てる。


「俺もやろう。まだ片付いていない書類はコレか?」
「いいですよ会長、休んでてください」
「そうッスよ。しっかり休んで欲しいッス」
「ふ……俺の顔も少しは立ててくれよ」


苦笑いしながら、無理矢理仕事を奪い取って、会長の机に座るハルク。
その場の全員、全く無理しやがって、みたいな表情を浮かべたが、『いつもの』ハルクが戻ってきた事を悟ると、自然と笑みが零れていた。


「さぁ、皆で一気に片付けるぞ!」
「「「おおおーーーーーっ!!」」」






………………







「んー? フェルエルはどうしたー?」


1時間目。
フェルエルの姿が見えないことを、うちの担任が教室全体に問い掛ける。

珍しいな、アイツが休むなんて。
じゃなくて、学校に泊まったのだから学校に居るはずなのに、さてはラーメンの仕込みでもしてるのだろう。そこまでラーメンが好きなのかアイツはっ!


「ゼンカ、何か知らないか?」
「きっとラーメンの仕込みだと思いますよ」
「何でっ!?」


教師―――今年学園に入学してきた、俺にとっては会う前から見知ったユハビィとやたら親密な関係であるキュウコン先生のリアクションは、実に正常なそれであった。
だって、一般生徒が学校に来て授業をサボってラーメンの仕込みに勤しんでいるなんて、常識で考えてありえないだろう。
いや、この世界で常識と言う言葉が危険性を孕んでいると言う仮説を棄却する心算は無いのだが、しかしこればかりは定められたルールを逸脱していると言わざるを得ない。


「そのうち戻ってくると思いますよ」
「そ、そうか……ま、真面目な生徒だと思ってたんだけどな……」


特に親しくも無く、遠目から見ているだけの人間によるフェルエルの評価としては、キュウコンのそれは実に『普通』であった。
そうなんだよなぁ、傍目から見てる分には真面目でカッコイイ女生徒なんだよなぁ……。
近くに居るとその異常性が明白なんだが。俺も、遠くから見てるだけで幸せな気分に浸りたかったぜ。

結局、1時間目が終わってもフェルエルは教室には戻らなかった。
10分しか無い休みではあるが、俺は次の授業の遅刻を覚悟して部室に向かった。その後を、サンダーが追ってきた。
口に出さずとも。言葉にせずとも。
同じ四天王として、一応は心配しているのだろう。
折角人手が2人になったのだから、俺はサンダーに校長室の方を任せた。


「校長室?」
「フェルエルの行きそうなところだ。部室に居るとも限らんし、分担しよう」
「オーケー、解った。見つけたらメールするぜ」


校長室は1年校舎側にあるし、部室棟は3年校舎側にある。
俺たちは揃って2年校舎の昇降口から出ると、二手に分かれて走り出した。
分担したし急げば次の授業には間に合うだろう、どんだけ入念に仕込みをしてるんだかアイツは。





サンダーは1年校舎に駆け込むと、去年までの空気を懐かしみながら校長室を目指した。
四天王と言えば奇人集団であると同時に、その学年を代表する存在と言っても良い。
そのため少なからずサンダーはデンリュウ校長と面識があったし、故に校長室には躊躇い無く踏み込むことが出来た。

出来たが、そこは―――


「……此処じゃなかったのか。一応、メールしとくか」


……蛻の空であった。
フェルエルは愚か、デンリュウ校長やアブソルの姿さえ見えない。
校長室を後にしたサンダーは、10分休みを満喫している1年生たちを押しのけ、2年校舎へと戻っていった。
戻りながら、ゼンカに対して一応報告のメールを送る。

「……ん?」

と、その時だった。
サンダーは廊下で駄弁っている1年生の中に、見慣れた影を見つけた。
それは、サンダーを誘うように、校舎の中の人気の少ない方へと逃げていく。

追いかけるサンダー。やがて辿り着いたのは、1年校舎の中の特別教室(理科室とか)が並んでいる場所。
次の時間は、何処のクラスも特別教室は使わないらしい。閑散とした廊下で、サンダーは一人で立ち尽くしていた。


「……っかしいなぁ、こっちに来たと思ったんだけど……にしたってあの馬鹿、此処で何してたんだ?」


一人でぼやくサンダー。
踵を返し、元来た道を戻り始める。
その目は携帯電話の画面に集中していて、


ペタ、ペタ、


後に現れたそれに、直ぐには気付けなくて、


「―――え?」


振り返ったときには、もう


「オイ、お前、何を―――」









―――ドンッ!!!








主を失った携帯電話が、一通のメールを着信したのはその直後だった。



From:黒木全火
件名:無題
――――――
部室には居なかった。
そっちはどうだ?









……………







「ったくサンダーのヤツまで居ないのかよ……オイゼンカ」
「ん〜……何ですか先生……くぁぁぁぁ」
「欠伸してる場合じゃ無いだろう? サンダーとフェルエルはどうしたんだ?」
「如何したって―――、アレ?」

2時間目の始まりの事だ。
何時の間にか寝ていたらしくて、机に突っ伏していた俺を叩き起こしたキュウコン先生の言葉は最初、理解することが出来なかった。
二度言われて、教室を見渡して、サンダーが居ない事に気付き、慌てて携帯電話を開く。

サンダーから、『1年校舎には居なかった』と言うメールが新着メールに来ていた。
着信時間はちょうどこっちが部室には居なかったとか言うメールを出した直後くらいだ。お互い、報告が擦れ違いになっていたらしい。
そこは如何でもいいんだが、何故サンダーはまだ戻らないのだろうか?

……フェルエルが消えて、サンダーが戻らない……。


「…………え」


寝惚けた頭が、一瞬で覚醒する。
全身の血が凍るように冷たくなり、『今起きている現象』が一体『何に関連するものなのか』が、即座に脳内で推理される。
どう控えめに見ても、これは単なるサボタージュの類ではない。
フェルエルは兎も角、サンダーはふざけているようで根はかなり真面目な男だ、とても授業を抜け出すような男では断じて無い。
だとしたら、何故戻らない?
1年校舎との往復の時間は全力で駆け抜けても5分と要さない。
ちょっと小走りで5分と言ったところだ。
つまり、このメールの受信記録+大目に見積もって3分=……とっくにこの教室に居て、授業を受けている時間と重なっているはずである。
なのに戻らない―――それは、『戻れない事態が発生した』以外に考えられない!
じゃあ、戻れない事態って一体なんだよ!? 1年生に気になる生徒を見つけて告白してハートブレイクってか!? 違う違う、そんな生易しい想定で行動するな! 仮にそうだとしてもアイツの場合は教室の中で勝手にブルーになるだけだ! 屋上で黄昏たりなんかしない!
だったら戻らない理由として考えられるのは―――拘束されている、或いは、既に―――ッ!!

かつて3年に囲まれたあの瞬間を『突沸』と喩えよう。水が瞬間的に沸騰して爆発するのに似ている。
ならば、今の俺はまさに『沸騰』だ。ジワジワと心が煮え滾り、ボコボコと音を立てて内圧を発散させている状態!


「先生……」
「ど、どうした?」


俺の『目』を見て、キュウコンがたじろいだ。
それは当然だ。人間とて所詮は獣、本能的に危険を察知した場合、たじろぐのが正常な反射なのだから。


「二人を探しに行ってきます」


俺は、そう言い捨てて教室を飛び出した。
誰も、俺の後は追えなかった。

若干一名、『追えるけど追わない』事を選んだ、リシャーダを除いて。
リシャーダはまるで興味が無いかのように、一瞬だけ俺の背中を見てから、また窓の外に顔を向けるのだった。









続く 
  
  
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