第三章 ◇◇◇ 見えざる影からの挑発

 エンジュシティには冷えた空気が漂っていた。
 じっとりと肌を舐める朝霧は、山陰の向こうから差し込む鋭角な日照によってその姿を消していく。
 ポッポの鳴き声はちらほらと聴こえてくるが、人の話し声が聴こえてくるにはまだ少し早い。
 この静寂は、昨夜から続いているジム襲撃事件をまだ誰も知らないからこそのものに違いない。それが知れ渡っていれば、到底呑気に眠ってなどいられやしないのだから。
 しかし……事情を知る者が見ればこの静寂は、あまりにも不気味に見えたことだろう。
 頂上に伝説のポケモンの帰還を待つスズの塔も、それを囲む木々の赤色も、この悠久の都の持つ無言の威圧感をさらに助長しているようであった。
 早朝、今日もまた修行のためにエンジュジムを訪れた取り巻きのトレーナーたちは、そこで驚くべきものを目撃した。
 いつもならもう開いているはずのエンジュジム扉と窓が全て締め切られ、その何れもが施錠されていたのだ。
 いくら朝早いとは言え、マツバの性格を考えれば、もう朝日が昇っているのに雨戸も開けていないというのは、少し、いやかなりおかしな話である。
 今日に限って、偶然だろうか?
 そんな馬鹿な。マツバは真面目な男だ。ジムを開けられない用事があったとしても、前日には必ずジム生全員に連絡が行き渡る。それが当日の朝に突然決まったなら、ジムの扉に貼り紙くらい残っていて然るべきだ。
 だから、ジム生たちはジム周辺をくまなく捜索した。
 もしかしたら貼り紙が風に飛ばされてしまった可能性が、僅かにあったからだ。
 しかし結局、彼らは何も見つけることは出来なかった。そうこうしているうちに昨夜から続く一連のジム襲撃騒ぎのために、結局ヒワダからエンジュまで走ってきてしまった警官――三匹のガーディを連れた巡査が、現場に駆けつける。
 どうもその顔色を見る限り、エンジュで起きている異変に対して嫌気のようなものを感じているように思われた。
 それもそのはず。彼は、既に同じ光景を見てきたのだ。コガネシティで。

「……またかよ、くそったれィ……。」
「あぁあ、お巡りさん……これは一体何の騒ぎでしょう……?」
「……昨日の夜から、ジムの襲撃事件が続いている。此処が恐らく……4件目になるんだろうさ……。」
「そ、そんな……?! それではマツバさんは……!」
「だから今からこの扉を破って、助けに入るんだろうが!」

 巡査はエンジュに来る前に、コガネジムにも立ち寄っていた。
 本当はまだまだ調査すべき事が沢山あったのだが、ヒワダのような田舎町と違ってコガネには優秀な警備員が数多く配属されているため、コガネジムの件は彼らに任せる事にして自分は犯人の足取りを追ってエンジュシティまでやってきたのだ。
 エンジュジムの様子は、まさにコガネジムと同じ状態にあった。
 全ての扉が施錠されていて、まるで人間の気配が感じられない。
 コガネのジムリーダー、アカネは、密室状態のジムの中で倒れていたところを保護された。だからこれが同一犯の犯行ならば、今頃このジムの中には、マツバが倒れている事になる。
 密室、というわけだ。ジムの建物はリーグ運営が用意するものだから、外へ通じる秘密の通路などありはしない。あったとしてもそれを知っているのは、本当にごく一部の限られた人間だけだ。
 …………いや。…………仮定の話は止そう。
 秘密の抜け道など、存在しない。

「ガーディ、かえんぐるまァ!」
「ォォォオオオオンッ!」

 三匹のガーディが、雄叫びを上げて一列に並ぶ。
 巡査は元々、ポケモンコーディネーターであった。コンテスト用に、バトルとは趣向の異なる大技をいくつも持っていた。
 この三匹のガーディによるかえんぐるまの演舞は、彼の得意とする大技の一つだった。
 最後尾のガーディが、扉に向かって跳躍する。真ん中のガーディが真上に跳ねると、ちょうど最後尾だったガーディの背後に回り込む形となった。宙を舞う二匹のガーディは互いの前足と後ろ足を合わせ、じごくぐるまの要領でダブルかえんぐるまを発動する。
 会場でこの演舞を見た者達は、何時しかその技を讃えてこう呼ぶようになった。
 “地獄の火炎車”――と。
 二匹同時のかえんぐるまは既に通常の倍の威力。しかし、彼らの前にはもう一匹、最後のガーディが待ち構えている。彼は、扉に向かって飛来する火山弾と化したガーディたちに合わせて、自身もかえんぐるまを発動しながら宙に飛び上がった。
 直線的な火山弾に、横回転しながら迫るガーディ。その足が、火山弾の尾を打ち抜く。それはまるで、センタリングに合わせてボレーシュートを撃つサッカー選手のよう。
 成る程、地獄の火炎車とはよく言ったものだ。これこそまさに三位一体、地獄の番犬ケルベロス。三匹の炎が重なり、弾けて、さらなる加速を生んで扉に迫る。もはや雨戸の一枚や二枚で止められる威力ではない。もしこの一撃を止めたければ、ツボツボの殻で作った鎧を纏ったカビゴンの軍団を集めて配置するしかない……!
 轟音と共に、暗黒のジム内に朝日が差し込む。
 パラパラと天井の一部が崩れ、土煙が立ち込めるところにガーディたちは果敢に飛び込んで行く。
 そして……三匹は、見つける。
 マツバではなく……一枚の紙切れを。そこには……あからさまな挑発が記されていた……。

“ジョウト最速は私だ!”
“次はチョウジだ! 悔しかったら捕まえてみろ!”

「…………く、くくく……! ハハハハハッ……言ってくれる、言ってくれるじゃねぇか……!!」

 紙切れを握り潰し、巡査は――笑った。もう、笑いしか込み上げてこない。
 ダメだ。
 追いつけない。
 敵は恐らく、まだ近くにいる。チョウジタウンに向かうのは、ここで自分たちが悔し涙を流しているのを近くで嘲笑ったその後に決まってる……。なのにきっと自分達は追いつけなくて、またチョウジジムの前で轍を踏む事になるに違いない……!
 あぁあそれならもういっそ此処から動かない方がいいんじゃないのか。
 ここにずっといて膝を抱いていれば、敵も物陰に隠れたまま動かないで、チョウジジムは安全なんじゃないのか……?

「……………………そんなワケねぇだろ、冷静になれ俺……。……ガーディ、早くマツバを探し出すんだ!」

 弱気になる思考を切り替える。
 犯人がどうせ近くにいるのなら、これからすぐに追い詰めてやるってところを見せてやるだけの話だ。逃げ切らせなどしない。必ず捕まえてみせる。

「クゥン…………。」
「あん……? なんだお前ら、一体どうしたって………………。」

 三匹のガーディは互いに顔を見合わせたりしながら、困惑した表情で巡査に何かを訴えていた。
 手紙は見つけた。
 でも、ガーディたちはそれ以上、このジムで何かを探そうとはしなかった。
 ガーディはとても鼻が利く。だから何かを探す事にかけて彼ら以上に頼れる存在はこの場に存在しないのだが、しかしその彼らが、それ以上の捜索を放棄しているのだ。
 ……即ち、それの意味するところは一つ。
 ここには、マツバはいない。
 今までのジムリーダーは、現在犯人を追いかけているハヤトを除き、軽傷を負っていたものの無事に保護されてきた。
 でも、マツバだけは違った。
 ジムの中にいないのだ。これでは、生きているのか死んでいるのかさえ、解らない……。

「……まだ何か手掛かりがあるかも知れない。電気を点けよう、誰か案内してくれ。」
「こ、こちらです……。」

 ジム生の老婆に先導され、真っ暗闇のエンジュジムの中を進む。
 足場が悪いのは、ここもまた破壊されているからなのか。構造上、マツバがジムの仕掛けの下に転落している事も考えられた。ガーディの鼻を誤魔化す手段ならば、犯人の周到さを考えれば用意されていないとも言い切れない。
 老婆が照明のスイッチをパチンと鳴らす音が聴こえた。しかし、なかなか電気が通らない。ジムを破壊された結果、照明システムがダウンしたと考えるべきか。
 エンジュジムはその風習からか窓の数が極端に少ない。全ての窓を開放したが、ジム中央にある巨大な落とし穴状の仕掛けの深淵までを覗くことは不可能だった。
 その代わり、太陽の射光に照らされた窓辺から、巡査はジム内部の破壊の様相を垣間見る事が出来た。
 今までのジムと較べて、大きく違和感があるような破壊状況ではない。ただただジムの内側が滅茶苦茶に、破壊の限りを尽くされていた。だから寧ろ違和感があるとすれば、それはコガネジムの方かも知れない。ここやヒワダの状況を思えば、コガネジムだけは少し手加減されていたように思える。
 犯人は……アカネに対し手加減する理由があった……例えば彼女の知り合い……或いは、同性……?

「……煤けてるな……。」
「まるで、焼けた塔のようですね……。」

 壁や床のあちこちが黒ずんでいる。
 指先で触れてみると、たちまち大量の煤が皮膚を黒く染めた。
 これも破壊の影響に違いない。ヒワダジムのことも考えると、犯人の手持ちには強力な炎タイプのポケモンの存在が考えられた。
 だとすれば、単にヒワダジムは燃えやすい構造であったために、あれほど甚大な被害となってしまったとも考えられる。あのジムは虫タイプを中心に扱うため、虫ポケモンのために大量の植物を置いていたからだ。
 それが真実であるならば矢張り、今のところ違和感は無い。この一連のジム襲撃事件は全て同一犯によるもの。恐らく、ワカバタウンかキキョウシティのいずれかから冒険を始めたトレーナーの、情け容赦のないバッジ狩り。それが、真実だ。

「――巡査さん! コガネから応援が到着したようです!」
「――ああ、ご苦労。アンタたちは、もう下がっててくれ。此処からは俺たちの仕事だ。」
「は、はい……。」

 ジム生の老婆達は、すごすごと一時帰宅を命ぜられる。しかし、どうせすぐに呼び出されることとなるだろう。事件の、重要参考人として。

「どうだね、様子は。」

 ジム生が下がると、入れ替わってジム内に立ち入ったのはブラウンのロングコートがよく似合う、いかにも刑事そのものの風貌をした渋い中年の男だった。
 名を、鬼瓦という。巡査より階級は高いが、高いと言っても一つだけだ。

「わざわざお越しですか、鬼瓦巡査部長。」

 “巡査部長”を強調する。その表情と声色から、巡査が鬼瓦をよく思っていないことは明白だった。

「君の事だ。また無茶をするのではないかと思ってな。」
「………………。」
「まぁいい。それより、状況を掻い摘んでくれ。」
「……解りました。」

 巡査は命令されるままに、全ての状況を簡潔に説明した。
 キキョウ、ヒワダ、コガネ、エンジュの道順でジムが襲撃され、現状のように壊滅している事。
 キキョウのジムリーダー、ハヤトが現在、単独で犯人を追いかけている事。
 エンジュのジムリーダー、マツバだけが見付からない事。
 置手紙によれば、次はチョウジジムが襲撃されるという事。
 犯人の手持ちには、強力な炎タイプのポケモンがいると思われる事。
 出身はワカバか、キキョウのどちらかの可能性が高い事。
 思いつく限りの事を話し終えると、それを確認した巡査部長は、巡査の肩にポンと手を置いて言った。

「…………まさかとは思うが、この一連の事件、君が犯人だなんて事はないよなァ……?」
「…………………………え?」

 巡査部長の、鷹のように鋭い眼が光る。歴戦の刑事だけが持つ、悪を見逃さない正義の眼光だ。それに凄まれれば、どんな強靭な精神力を持つ者でも決して嘘を吐き通すことは出来ないとさえ言われている。
 そういえば、この巡査部長にはあだ名があったっけ。
 巡査は、ふとそんな事を思い出す。
 “オニドリルの鬼瓦”。虚実によって塗り固められた壁がどんなに悪を擁護しようとも、その鋭い眼光と、それ以上に先鋭な正義のドリルからは、絶対に逃げ切れないのだとか……。

「な、……何を言っているんです、鬼瓦巡査部長、」

 悪い冗談だと思って、巡査は軽口を叩くような口調で言うが、鬼瓦はピシャリとその言葉を遮り、断定する。
 巡査は――クロではないかも知れないが、シロだと言い切れる程の材料があるわけではない。
 ヒワダジムの破壊状況は、明らかに常識を外れた力を持つポケモンの仕業だ。そう、それこそ巡査の持つ三匹のガーディの、“地獄の火炎車”程の破壊力が無ければ成し得ないのだ……だから。

「強力な炎タイプのポケモンを持ち、そしてここまでの事件に長く関与している。……俺ァ、シロかクロ以外は認めねンだ。グレーなんて絶対に許せねェ。解るか? お前も立派な容疑者なんだよォ巡査。」
「ぼ……暴論だッ……、自分は此処まで、これだけの事件を起こした犯人を決して許せないと、正義の炎をこの胸に滾らせて足が棒になっても走る事を止めなかったッ……その自分を、疑うと仰るのですかッ………………!!」

 エンジュにして漸く現場に参上した、最も客観的な視点を持つ鬼瓦の疑いの目は、先ず、その矛先を巡査へと向けた。
 鬼瓦がパチンと指を鳴らすと、複数の警官がどかどかと現れて巡査の両腕を捕まえる。
 それが引き金となって、今まで理性で抑えられていた巡査の感情が爆発し、彼の口から一気に溢れ出した。しかし、流石に人数が違う。数人掛かりで取り押さえられては、巡査も抵抗の余地など無かった。

「お、鬼瓦ぁああああぁッ!! うぉおおおおおぉっ、てめぇまだ俺の事をッ…………、離せッ、離せってんだろくそッ、ちくしょぉおぉぉおおぉっ!!」
「詳細はムショで聴いてやるよ。後は任せな青二才。すぐにお前が無罪である証拠を、俺が見つけてやるからよォ! 安心してカツ丼食って待ってろよォッ! カッカッカッカッカ!」

 鬼瓦の下卑た笑いに見送られ、巡査はパトカーの後部座席に押し込められる。相棒のガーディたちはモンスターボールに回収され、そのまま没収されてしまっていた。
 これは、何かの間違いなんかではない。明らかに、意図的に、作為的に、巡査は鬼瓦の手によってこの一連の事件から、放逐されたのだ。
 その理由に、巡査には心当たりがあった。しかしそれをこの場で大声で叫ぶ前に、彼はもうエンジュシティを、遠く離れ始めていた。
 もしも彼が犯人ならば、これで事件は解決するだろう。だが鬼瓦は、そんなことは微塵も考えてはいない。何故なら彼は何よりも純粋に、このジョウト地方稀に見る凶悪事件の手柄が、欲しかったからだ。
 齢五十を数え、年齢と現場で積んだ経験だけが嵩張る中、彼が未だに巡査部長などと言う階級に甘んじているのには理由がある。……いや、理由と言うよりは、それは“原因”があると言ってもいい。
 全ての元凶は、巡査にある。細かい事情は割愛する。ただ、巡査がいたから、鬼瓦はキャリアの出世コースから弾き出されてしまった。それだけは間違いない事実だった。
 巡査さえいなければ、鬼瓦は今頃もっともっと高い階級にて甘い蜜を吸っていたに違いないのだ……全部、全部巡査が悪いッ、あいつさえいなければ、いなければ……ッ!!

「…………ふ。過ぎた事を何時までも。私もまだまだ、若いものよ。」

 直前までの煮え滾る感情に冷や水をぶっ掛け、自嘲気味に笑い捨てる。
 鬼瓦は白い手袋を装着して、床に落ちていた一枚の紙切れを拾い上げた。
 それは、犯人からの挑戦状にも近い内容の挑発文だった。そこにはきっと、真犯人と、そして巡査の指紋が残されている。

「オイ、そこの。こいつを鑑識に回しとけ。」
「ハッ!」

 それから鬼瓦率いる調査チームは、内側だけが壊滅的な被害を受けているエンジュジムをくまなく捜索した。
 単騎で乗り込んできた巡査とは違い、彼らにはエンジュの深淵を暴くだけの十分な技術と装備があった。しかし、それらを持ち出しても結局見つけられたのは、最初の手紙が一枚きりであった。
 強いて言えば、ここでもジムバッジが一つ紛失していたことくらいか。このまま全てのジムが落とされる事になれば、それ程の凶悪な力を持った化物がジョウトリーグに出場することになってしまう。
 それだけは、絶対に阻止しなければなるまい。
 それは巡査に対する怨嗟や自身の出世欲に関係なく、鬼瓦の掲げる正義の心によって導き出された率直な感想だった。

「チョウジ……か。」

 次のターゲットはチョウジタウンのチョウジジム。
 ジムリーダーのヤナギは既に老兵だが、ポケモンバトルに年齢は関係ない。強いポケモンを持っているヤツが勝つ。それがこの世界の残酷なルールだと鬼瓦は正しく理解していた。
 ならば、きっと犯人とてそう易々とヤナギを倒せやしないだろう。何故なら彼には、伝説の鳥ポケモンであるフリーザーの加護があるのだから――。
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