第二章 ◇◇◇ 最速への執着

 ハヤトがコガネジムに到着したのは、まだ朝日も昇っていない頃だった。
 町全体に夜の帳が下りている。24時間営業のフレンドリィショップやポケセンを除けば、コガネシティは沈黙を尊んでいた。
 まだ何も起こってはいないらしい。ジムはその扉を硬く閉ざしたまま、何処も不審な点は見受けられなかった。
 自動照明センサーが反応し、ハヤトの足元に大きな影が現れる。全てのジムリーダーに与えられているカギを使い、コガネジムの封じられた扉を開くと、ハヤトは無言のままジム内部に立ち入った。

「……………………。」

 このジムは複雑に入り組んでいるが、ヒワダやフスベにあるような面倒臭い仕掛けは設置されていない。階段を昇り、降り、昇り、降り、ほぼ一本道の迷路を抜けると、ジムリーダーとの対戦のために用意されたバトルフィールドに辿り着く。
 照明は落ちていて視界は皆無。不気味な静寂の中をハヤトの足音が木霊した。
 …………誰も、居ない。
 普通、ジムリーダーはジムに寝泊りする。
 だからコガネジムのリーダーであるアカネだけはこの場所にいてもおかしくないのだが……。
 そういえば最近、自然公園の近くにポケスロンという競技施設が出来たのだったか。もしかしたらアカネの事だから、夜通しで遊びに行っているのかも知れない。
 全く、この一大事に呑気なことだ……。
 ハヤトは嘆息して踵を返す。
 生真面目な性格のハヤトは、アカネのような不真面目なジムリーダーをあまりよく思っていなかった。だから本心では、コガネシティがどうなろうとも関係ないと思っていたはずだった。
 なのに自分はこうしてコガネジムにいて、アカネがいない事を確認して溜息を吐いている。
 それは、アカネがジムリーダーとしてまだまだ未熟である事を嘆いての溜息なのか。それとも、この一大事にアカネがジムを留守にしている不幸中の幸いを安堵する溜息なのか。ハヤトには、その判断は出来なかった。
 再び、階段を昇る。その時ハヤトは、ジム内部のあちこちに乱雑に配置された大きな箱の陰に何かが落ちている事に気が付いた。
 ジムの天井には、大きなガラス張りの屋根がついている。だから照明が無くともこの場所だけはある程度の光が差し込むのだが……月明かりに照らされた“何か”が、彼の視界の端で煌いたのだ。
 それを、近寄り、確認して、拾い上げる。
 それは…………カギ。ハヤトが持っているカギと同じデザインの……ジョウトのジムリーダーに与えられている、全てのジムの開閉を可能とする、カギ……。

「…………これは……なんで、こんな処に……?」

 カギにはキーホルダーがついていた。ミルタンクのシルエットを切り取った金属製のアクセサリーが、チャリンと音を立てて揺れる。
 これは…………アカネの、カギだ…………。
 でも……いや、おかしい……。
 だってコガネジムの扉は、確かに施錠されていた……カギが内側にあるのに、確かに施錠されていた……!
 だから、その答えは……一つ……!

「アカネッ……!!」

 ハヤトは急ぎ壁に向かって走った。どこかに照明のスイッチがあるはずだ。手探りで壁伝いに歩き回る。やがて何かの突起に指先が触れ、それが照明のスイッチである事が解ると、ハヤトは迷わずそのスイッチを押した。少しの時間差と共に、ジム全体に明かりが灯る。

「な、……んだ、……これは……ッ……!」

 ……いつも、内部がぐちゃぐちゃのジムだ。それが挑戦者の実力を計るためなのか、アカネの適当な性格が反映されているのかは解らない。ただハヤトの個人的な感想を言わせてもらえば、それはきっと後者であった。
 だから、全然気にしなかった。
 このジムがいつも以上に滅茶苦茶になっていても、僅かな月明かりの下でハヤトは違和感を感じ取る事が出来なかった……!
 照明によってあらゆる真実を晒すコガネジムの内装は、とても今までのような“統制された無秩序”ではない。もはや、誰が見ても火を見るより明らかに、コガネジムは――壊滅していた……!
 カギが落ちていて、そしてジムが施錠されていたなら、アカネはきっとジムの中にいるはずだと思っていた。
 でも、それならこの有様は一体!?
 いくらアカネがだらしない性格でも、ここまでジムを滅茶苦茶にはしないはずだ。いや、仮にしてしまったとしても、アカネには彼女を慕う取り巻きのトレーナーが沢山いるのだ、そのトレーナーたちがこんな状態を放置したりするなんて、とても正気の沙汰ではない。
 頭の中で、すぐに点と点は結ばれた。
 壊滅したキキョウジムとヒワダジムが脳裏を掠める。この一連の事件は既に、予想よりも遥かに凄まじい速度で進行していることをハヤトは――乱雑に粉砕された箱と箱の間で気を失っているアカネの姿を見つけた瞬間、思い知るのだった……。

「アカネ! おいアカネ、しっかりしろ……っ、うぅぅぅッ……! くそ、くそぉっ、まただ……また間に合わなかったッ……何がジョウト最速のジムリーダーだ、何なんだ俺は……ちくしょおぉぉぉぉおおおおおっ!!!」

 アカネを抱えて、空に向かって叫ぶ……その時だった。
 彼の目に、大きな影が映り込む。それは、見たことも無いポケモンだった。
 ハヤトにはジョウトでジムリーダーになる前に、カントーやホウエン、シンオウ地方まで旅をしていた経験がある。神話や伝承、胡散臭い文献にも色々と手を出した。しかし巨大な影は、その何れの姿にも当て嵌まらない形状で、遥かな高みよりハヤトを見下している。

「…………お前が、……やったのかッ……!」
『…………。』
「……質問に、答えろォッ!!」
『哀れなハヤト。でもすぐに教えてやろうぞ。お前はジョウトで最速ではない事を! ケタケタケタケタッ!!』

 影は人の言葉を話し、不気味な笑い声でハヤトを侮辱すると、ガラス窓をすり抜けて空へ、徐々に明るみを帯びてきたコガネの空へと、消え去った。
 ガラスを通過されては、いくらハヤトでも追いかける事は出来ない。しかし今すぐにこのジムを去り、ピジョットで追いかける事は出来るはずだった。
 それをしない最大の理由であったアカネの瞼が、微かに動く。……一時的だが、意識を取り戻したようだ。彼女はうっすらと目を開け、ハヤトを見る。そして、言葉にならない声で何かを呟き、そのまま再び、意識を暗い闇の中へと落としてしまう。
 ただ、ハヤトは理解した。
 アカネは決して、未熟などではなかった。
 この期に及んでも自分の身より、犯人を追跡してくれと、懇願したのだから……。

「……解った。……必ず、犯人は俺が追い詰める……。……そうさ、地団太を踏んでいる暇さえ俺には無いハズだ――ジョウト最速の名は、まだ誰にも譲らないッ!!」

 ……ハヤトがピジョットの背に乗りコガネシティを飛び去っていくのを、一人の少女が建物の影から見つめていた。
 赤いリボンがアクセントになっている、白くて大きな帽子の下から、鋭い眼が空を睨んでいる。
 少女は周囲に誰もいない事を確認すると一度コガネジムに立ち寄り、ほんの数十秒の後に満足げな顔をして、自らもコガネシティを出発するのだった。
 次の目的地は――エンジュシティ。究極の鳥ポケモンが降り立つ、悠久の都……。



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 エンジュジムのリーダー、マツバは霊感に優れた青年であった。
 伝説のポケモンの神話が残るこの地にて修行を積んだ事や、特にゴーストタイプのポケモンを愛した事が彼の能力を開花させた要因だと言えるが、最大の理由は矢張り彼の非凡な才能に違いない。
 いくら修行を積みゴーストポケモンと心通わせようとも、霊感という境地に達するまでには、気の遠くなる程の年月が必要だ。それは、このジムのトレーナーたちが軒並みマツバの倍近い老人である事からも察する事が出来るだろう。
 ただ、マツバはその才能をひけらかした事は一度もなかった。
 たとえ周囲にどんな風に思われていようとも、彼は己を磨く事に対して非常にストイックだったからだ。……それが結果的に、力無き者たちから悪い印象を持たれる要素となっていたのだが、誰がなんと思っていようとも、彼はジョウトのジムリーダーとしてハヤトに負けず劣らずの真面目な男であった。
 ジョウトリーグの運営は、それをよく理解していた。だから伝説の鳥ポケモンの伝承が残るエンジュのジムリーダーには、マツバが抜擢される運びとなった。もし彼が居なければハヤトがその任に就いていただろう。そういう意味でマツバとハヤトは宿命のライバルであり、そして親しき友であった。
 キキョウジムが壊滅したという噂は、既にマツバの耳にも届いていた。
 ただし、人づてに聞いたのではない。その類稀なる霊感が、“虫の知らせ”として彼にその一大事を伝えていた。
 だから、彼はこの夜、一睡もしていない。
 誰も居ないジムの中、リーダー専用のフィールドの中央で座禅を組み、“敵”が来るのをただ待ち構えていた。
 ハヤトはどうやら無事で、今犯人を追いかけているらしい。
 ならば自分にやれる事は、ここで犯人と対峙し、勝利しないまでもハヤトが来るまでの足止めをする事だ。挟み撃ちになれば、神出鬼没な挑戦者も逃げ場は無いだろう。
 ……さぁ。
 来い、いつでも。
 俺は逃げも隠れもしない。
 正々堂々バトルし、お前が勝ったならばこのファントムバッジをくれてやろう。

「…………! ……来たか。……さぁ、お前の力、楽しませてもらおう……!」







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 アサギシティには、デンリュウの力で光を灯している灯台が聳えている。
 最近までそのデンリュウは体調を崩していたが、赤い帽子の少年が薬を届けてくれた事で無事に問題は解決することとなった。……とは言え、そのデンリュウの事実上のトレーナーであるアサギジムのリーダー、ミカンは元来の心配性な性格のため、あれから数日が経った今でもまだ、毎晩のように灯台の最上階に足を運んでいた。
 いつまた体調が崩れてもいいように、自分が傍についていてあげなければ。
 その使命感……いや、親心は立派だが、しかし心でいくらそう思っていようともミカンはまだまだ幼い少女なのだ。昼間はジムリーダーとしてスチールバッジを守り、夜はこうして灯台のデンリュウ――アカリの傍で寝ずの番をする。
 一体、いつ眠っているのか。それを知っている人間はあまりいない。ただ少なくとも、それがミカンにとって大きな負担となっていたのは、言うまでもない事であった。
 アカリの隣で、ミカンの身体が舟を扱ぎ始める。……流石に、もう一週間もこんな事をしているのだ。そろそろ限界が来る頃だろうと、アカリは気付いていた。
 このまま眠らせてあげるのが、優しさというものだろう。明日の朝、ジムが開く時間より前に起こしてあげればそれで何も無かった事に出来るのだから。今日一日くらい、ゆっくり休んでいいのだ、ミカンは。
 ……アカリはこれまで、ずっとミカンの傍にいた。
 この灯台で幼い頃から、彼女の面倒を見てきた。
 今は、多分、ミカンの中ではその立場は逆転している。
 だけどいくら彼女がそう思っていようとも、アカリにとってミカンは何時までも、永遠に、守るべき大切な、主だった。
 だから……ミカンが眠りに落ちたのを確認すると、ゆっくりと音もなく、アカリは立ち上がる。
 そして、ミカンのポケットから二つの鍵を、拝借した。
 一つは灯台の最上階、“この部屋”のカギ。これは一つしかないから、これで施錠すればもう何者もミカンの眠りを妨げる事は出来ない。
 そしてもう一つは、アサギジムの扉を開く事の出来る――全てのジムリーダーに与えられたカギ。
 ……本当に疲れが溜まっていたのだろう。死んだように眠るミカンの寝顔を一瞥し、アカリは部屋を出た。器用に扉に施錠して、それからカギをエレベータ前の観葉植物の鉢の下に隠す。

「……驚いた。頭のいいデンリュウね。」
「……………………。」

 エレベータは直通で灯台の一階へ繋がっている。アカリがエレベータから降りた時、彼女の目の前にはアサギシティでは見慣れないトレーナーが立っていた。
 今日、ミカンがジムを閉めて灯台にやって来る時、彼女をこそこそと尾行している人間の姿を、アカリは灯台の最上階から確認していた。
 どんな理由があるにせよ、今、ミカンの眠りは誰にも妨げさせない。アカリはその意思に基づき、バリバリと電気を滾らせる。するとトレーナーは驚いた様子で両手を開き、敵意が無いことを一生懸命に叫んだ。

「ちょっ、ちょっと待って! 何その静電気、触ったらマヒどころか一発KOみたいじゃない!?」
「ぱるぅ……?」
「タンマ! 私は敵じゃないってば! 誤解よ誤解! ……こ、言葉は通じてるのかしら?」
「ぱる…………。」

 赤いリボンがトレードマークみたいな、大きな帽子を取る。出てきたのはミカンと同い年くらいの少女の顔だった。
 この辺りでは見かけないが、ポケモンを連れているからきっとトレーナーだろう。
 それにしても雑巾臭いマリルもいたものだと、アカリはちょっと嫌な顔を浮かべる。

「実はコガネジムに入りたかったんだけど、カギが掛かってて入れないのよ。だからアサギのジムリーダーに借りに来たんだけど、その様子じゃ今は無理かしら?」

 少女の言葉に、アカリは首を傾げた。
 ジムのカギは、そう易々と一般人に貸し出せるものではない。それを、事も無げに“借りに来た”などとはよく言えたものだ。
 もしかしたらミカンの知り合いなのかも知れないが、借りるの本当の意味は“力尽くで奪い取る”という風に解釈出来なくも無い。……いや、でも。

「ぱる……。」
「あら! あなたがカギを持ってたの!? 本当に賢いのね!」

 ……このあどけない少女を、アカリはどうしても疑う気になれなかった。
 雑巾臭いマリルも、屈託の無い笑みでこの少女に擦り寄っている。こんな風にポケモンに好かれる人間に、悪い人間がいるものだろうか。
 アカリは、暫く深く考えた後、カギをギュッと握ったまま、少女に一歩だけ近寄ってみせた。
 これが、最大限の妥協。カギは貸せないが、自分がコガネのジムの扉を開けることは出来る。
 少し面倒な事に巻き込まれたなと嘆息したいアカリの気持ちを何処まで察しているのかは定かでは無いが、雑巾臭いマリルを連れた少女――コトネはデンリュウの接近を好意的な意味で捉え、やったぁと声を上げて喜ぶのだった。




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